関係性のオブジェクト・レベルにある記述行為

NHKブックス別巻 思想地図 vol.5 特集・社会の批評

NHKブックス別巻 思想地図 vol.5 特集・社会の批評

北田暁大(きただ・あきひろ)佐藤俊樹菅原琢(すがわら・たく)の三氏の論考を通読した。
こういう批評的分析を、自分のかかわる領域で出来るかどうか・・・。
(以下、強調はすべて引用者)



 社会学の歴史は、そうした対象同定、社会を描き出す手続きにかかわる試行錯誤の歴史であったともいえる(西阪仰の表現でいえば、「概ね、社会学の歴史は、「行為者の主観的観点」を取り込むことの失敗の連続だった」西阪仰『分散する身体―エスノメソドロジー的相互行為分析の展開』)。 北田暁大「社会の批評」p.52)

 例えば、『身体の比較社会学〈1〉』では「原身体→過程身体→集権身体→抽象身体→原身体」という循環で人類史が語られるが、原身体への回帰という未来の状態までふくめて、それら全てを語る大澤真幸という身体は「何」身体にあたるのだろうか佐藤俊樹サブカルチャー/社会学の非対称性と批評のゆくえ」p.221)


    • 「行為者の主観的観点」は、関係作法をめぐる政治性の、くふうのしどころ。
    • 記述のあり方が、論じ手にとっての《関係の技法》そのものであること。
    • 社会を論じることが、論じ手の「身の処し方」への鈍感さであり得る。 身近な関係作法への鈍感さが、理論家としての優秀さに見える倒錯。




当事者的な状況分析

菅原琢 「「アメリカ化」する日本の政治学――政権交代後の研究業界と若手研究者業界」(pp.381-405) より:

 学会誌に掲載される若手の計量系の論文の量が増えた裏では、研究手法をめぐる「対立」が存在する。
 ここで言う手法の「対立」とは、ある手法を用いる研究者と、別の手法を用いる研究者が論争をしているというような状況を指すのではない。非常にデリケートな問題だが、「改革」が行なわれたことにより、「計量分析を行なう研究者が、そうではない研究者に比べて、ポスト競争上で有利となってきている」と言われていることを指す。計量系の研究者は論文数を増やしやすいので、報告機会の増加のおかげで業績が増えやすくなり、より就職に有利になっていると指摘されているのである。 (p.390)

 筆者自身、複数の異なる雑誌で査読を担当し、ほとんどの論文を合格にしている。今現在も学会誌の発行等を手伝う立場であり、学会誌に携わっている先生方の苦労は嫌というほど知っている。ただそれでも、ここで査読について述べておきたかったのは、研究者は論文を量産するのが仕事ではなく、新しい知見、より適切な説明を世の中に提供するために存在しているのだという信念からである。間違った研究が権威を持って世に出てしまっては、それを更地に戻すのは大変である。その研究成果を元に他の研究者が時間を使ってしまったら、社会的損失である。これは改める必要がある。 (p.394-5)

 政治学では、不十分な研究が増えているにもかかわらず、その不十分さを検証するような研究はあまり出てこない。 なぜだろうか?
 ひとつの答えは、誰も他人の論文なんて見ちゃいない、というものである。確かに、その可能性もあるだろう。しかし、筆者としてはこれとは異なる答えを持っている。実は、一部の若手研究者は、他人の論文をよく読んでいるし、おかしいところも発見している。「この論文のここはおかしい(です)よね」という会話は、そんなに珍しいことではない。でも、そうやって気づいて筆者に報告してくれる研究者も、自らの論文のネタにもせずに、ただ黙っているのである。 どうしてだろうか?
 それは、すでに書いたように、競争が老若で、上下で非対称的だからである。
 若手研究者は少ないポストをめぐって競争をしている。ポストを獲得するためには、「上の人」に嫌われてはいけない。「上の人」が学界関係者だったら、論文投稿の際に不利益を被るかもしれない。そして何より、自分の人事を邪魔されるかもしれない。上ではなく下、つまり同じ若手研究者の研究に間違いを発見したらどうなるか。その研究者の「上の人」から目をつけられることになる。だから黙って無難な研究をするしかない。計量系の研究者が自分の指導教員の研究を批判したら、分析に必要なデータがもらえず、研究が干上がってしまう可能性もある。 (p.401)



この文章を実名入りで発表しておられること自体が、凄いのではないでしょうか。
研究者の言動が奇妙でも、その人が巻き込まれている制度*1ごと分析しなければ。 そしてそれこそが、社会参加支援に必要な分析目線なのだと思う。 継続的な社会参加が、どういう事情を担わされるか。


研究・支援のシステムが、発言者に影響力を持ってしまう。 とすれば、どういう人事評価システムを導入するかは、あまりに重要な政治判断です。 制度の設計具合によっては、大事な話をしている人こそ潰されてしまうのだから*2


私は、ひきこもりをめぐる社会学的研究に強い怒りを持ったことがあるのですが参照1】【参照2


社会参加そのものを研究している人たちが、自分の生きた参加実態を分析/研究せずに、ただ研究の都合で「ひきこもり当事者」を対象化し、そのご自分のメタ目線が何を強いられているか、どういう関係性を周囲に要求しているか*3への分析を拒絶する。――そんなかたちで関係性の作法を強要しておいて、なにが「ひきこもりの社会学」なのか。 まずはそういう疑念があります。

 制度論の話がすごくしんどいのは、「なるほどな、これは自分に関係あるな」と思ったあとに、そこから始めなきゃいけないでしょう。じゃあ自分の場合はどうだろうという。・・・・私は、大学の舞台裏の話を聞かせられると、けっこうゾーッとすることが多くて。パブリックに出てくる出版物には、知的業績の部分しか出てきませんよね。でも本当に考えないといけないのは、その人がどんな手続きでそこにいて、どんなトラブルを経験されているのか、だと思うんです。それは、単に素人でいいということでもない。 (『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.230、上山の発言より)



ご自分の関係作法を固定し、相手の作法を《記述=パッケージ化》して終わるのではなく、
相手と自分の作法を同時に検証し直す、その検証作業をこそ関係性の技法にする――私が《つながりの技法》として提案したいのは、そういう方針です*4



*1:その《制度》には、バカ話を交わし合う作法まで含まれる。 身近な「仲間」において、その作法は問われないまま押し付けられる。

*2:研究成果が特定企業の利益につながるジャンルではなおのこと。

*3:どういう手口を使ってそこに紛れ込んだか

*4:無縁社会」とは言っても、《つながりかた》こそが分からない。 無理につながることは、利用され振り回されることでしかない。