「当事者」を、名詞形で言うのをやめませんか。

いちど孤立した人が居場所を作ろうとするとき、つながれたかどうかだけでなく、《どういうスタイルで繋がるか》が問われる*1。 しかし孤立する恐怖は、つながりそれ自体を強迫化する。 あるつながりを、そのスタイルを問わずに絶対化する。 《当事者ナショナリズム》な同一化が、人を迫害するフレームになる。


“健常者” は、自分が健康だと思う社会性のスタイルを《ひきこもり当事者》に押し付ける*2。 最初はおっかなびっくりだった《ひきこもり当事者》も、これでいけると思い始めると、「あいつは社会性がない」と非難を始める。


ひきこもり問題は、「逸脱者を歓待すればよい」というだけの話ではない*3。 ある社会性の方針は、“臨床的な” 方針をすでに含みもっている*4。 人をカテゴリー化することで、あなたは一定の《社会性=臨床方針》を生きる(参照)。


「ひきこもり当事者」という名詞形の自己確認で、ようやく居場所を得たと思い込む人がいて、
これが関係をこじらせる。 ひきこもり的なメンタリティをかえって強化してもいる。


その肩書きで私の話すことは、誰のどんな恩恵になっているか*5
本来は名詞化じたいがおかしいのに、わざわざ被差別的なポジションを引き受けて*6、学者や出版社に利用されるだけか。 しかし問題意識に共通点があるなら、名詞形の肩書きで仲間意識を求められるより*7、重要なやり取りになる。――関係性においては、《政治意識を共有できるか》が決定的要因になる。


私は、肩書き枠それ自体を主題化するような問題意識を要求している――臨床方針として。
ひきこもりは、そういう問いを必要とするような事情をしている。


社会性には、問題意識や利害計算が織り込まれる。 あなたが「仲良くなる」ことしか、あるいは金儲けしか考えないなら*8、私の問いは邪魔でしかない。 私の問題意識は、「社会性がない」と糾弾されるだろう。


あなたはその言い分で、どういう社会性*9を押しつけているか。 それは、どういう関係パターンに都合がいいか。 たとえば社会保障は、病気や障害で人を名詞化する。 ⇒ 明白な政治目的から「人の名詞化」が求められ、それが利権にも結び付く*10


法や行政の手続きは、つねに名詞形で進む。しかし自分で工夫するつながりでは、お互いの関係は動詞形でやるしかない*11。(ありていに言って名詞化は、差別の問題でもある。)*12


名詞形を前提とする関係作法が、トラブルのフォーマットになっている。
(あなたが居場所を守るために、その思想が押し付けられている)


私は、関係を問い直す《場所》を必要としている*13。 徹底したディテールの提供と、問い直しのできるスタンスをこそ社会性としたい*14。 それは私にとって臨床方針であり、フェアネスの追求であり、反復される倫理の衝動になっている。(私はここで、禁欲としての社会性ではなく、traumatic な内的衝迫としての社会性をとり上げている。)


社会性の作法それ自体を変えてゆこうというのだから、
これはものすごく長期的な、環境改善の努力だ。



【追記】: 「カテゴリーを決めてレッテルを貼る」という、研究者の都合

「名詞形」に関連して、2009年8月16日の樋口明彦氏の発言より(参照):

 社会学者の調査は、「フリーターについて」など、やる前からカテゴリーを決めてレッテルを貼っている。 それよりも、一人の人間の持っているリスクが何なのか、誰にでも当てはまる汎用的な基準を作って、「フリーター状態にある人は、○○のリスクが高い」などとするべき。 たとえば、所得、労働上の地位、社会保険、社会関係(人との付き合い)、尊厳の問題、など。
「Life政策審議会」Part7(外伝1)




*1:つながればいいとは言えない。むしろ、最初から目的として「つながっている状態」をイメージすることで、かえって自意識が強まるだけになる。宮台真司らの議論は、この意味で最悪のかたちをしている。彼らは《完成形の誇示(=自慢)》によって、読者の自意識を強めることを動員の方針としているが、それはむしろ逆の効果をもたらす。

*2:「あたりまえじゃん!」の威圧。 “健常者” に順応することだけが社会性であると思い込まされる。

*3:それは歓待側が、「私はリベラルなんだ」というナルシシズムに浸ることでしかない。それはそれで、言説化されない「社会性」の前提に浸っている。

*4:主観性と関係性の(再)生産の方針は、すでに臨床を生きている。 その方法論は、自覚されていない。 「知ってはいないが、やっている Sie wissen das nicht, aber sie tun es.」(マルクス)。 そこで固定された臨床方針が、物質的フレームをもったイデオロギーとして反復される。

*5:《ひきこもり当事者》には、つねに期待される語りがあり、その作法に監禁される。 「観察対象」として、子どもポジションをやらされる。 逆にいえば、負うべき責任も免除されて。

*6:それは、主観と関係をほぐそうとする動詞形の努力を、名詞形の思い込みに監禁する。 「○○のくせに、なに生意気いってんの?」。 名詞形は、統治技法となっている。

*7:「同じ○○当事者ですよね」

*8:あるいは、私を政治の道具として利用することしか考えないなら

*9:反復される主観性と関係性のパターン。 自分のやりかたで「和気あいあい」を強制することは、社会性と言えるのか?

*10:たとえば「○○病」を名詞化すれば、「○○病には××が効きます」で宣伝が成り立つ。

*11:誰かを弱者として名指そうとする “当事者” 談義は、すぐに肩書きの獲得競争になる(「だれが本当の被害者か」)。 名詞形の “当事者” には、差別と裏表の特権しかない。 私はそれに対して、「関係者としての当事者性」を問うている。 いわゆるマイノリティとしての “当事者” にも、具体的関係がどういう実態だったかについては、責任を問われるという意味での当事者性が生じる。 どんな個人も、つねに動詞形で “当事者化” される。 医師や学者も、関係責任を問われる当事者であり、また逆にいえば、医師や学者だけに責任を問うことはできない。 ここは集団的に議論して、状況を作り上げていくしかない。

*12:誰かを名詞化することで「反差別」をうたう左翼コミュニティは、プライベートでは差別の温床になる。 反差別の闘士は、どうしても差別をやめられない。 いわば「差別発言の嗜癖症患者」となっている。

*13:物証を持ちよって「どういう状況だったか」を検証する場所としては、ひとまず裁判をイメージできるが、実定法や判例で「判決を下す」以前に、ディテールの内在的分節こそが求められている。(私はその内発的分節の唯物論を、スピノザの名と共に考えたいが、うまくいっていない)。

*14:贈与というなら、《検証=素材化》に向けた個人事情の提供にこそ、最高の贈与がある。 しかしそれは、嘘が当たり前のアリバイ競争のなかでは、利用されて終わる。 おのれを素材化した側が一方的に《観察対象》にされ、医師や学者は自分のやったことを素材化もせずメタに居直る。 ▼いわゆる前衛党は、絶対に自分を素材化しない(素材化の手続きが、政治意識に含まれていない)。 自分を無謬と思い込む集団では、身近な関係性は主題にならない。(思想が新しくなったように見えても、集団はあいかわらずこういう形をしている――いわゆる「当事者系」まで含めて。)