「倫理的実務としての臨床」と、合意形成

酒井泰斗(id:contractio)氏*1へのお返事の続きです。



酒井さん合評会拾遺(その1)より:

フィールドに出かけていって研究する人たちは、そこでしばしば軋轢やトラブルが生じることをしっていて

    • しかも、中にたいへん たちのわるい(or 困った)研究者がいることをしっていて、

そのことを非常に気にかけており、明示的にも たとえば「調査倫理」といったタイトルでもって、そうした問題について検討・対処しようとしている。

    • 念頭においていたのは「心理系」の研究者ではなくて、「フィールドを持って研究している人たち」一般でした。なので、これはもちろんエスノメソドロジストに限らない話です(念のため)。

こういう話をしたのは、もう少し問いの 切り分け が必要だろうと思ったからでした。上山さんの言うような「もっと原理的に考えるべきこと」はあるのかもしれませんが、しかしそれは「調査倫理」というタイトルのもとで語りうる論点をクリアしたうえで見えてくるものではないかな、とも思ったわけです。

ありがとうございます。 そう思います。
今回酒井さんに一連の返答をしようとして、単純な勉強不足を悔いるとともに、自分のやろうとしていることを一から捉え直す必要に迫られているのですが、
むしろ私は、調査倫理そのものを臨床技法のように考えたがっている。


「調査倫理」と名づけられた本は、自分のトラブル時などに何冊か眺めましたが、私が倫理の名で考えたがっている事業がそこにはないと思いました。貴戸理恵氏の時に私が取り組まざるを得なかったのは、声と存在が秩序づけられるロジックを分節することであり、それは最初から分かりきった規範を当てはめる*2というより、この独特の検証作業こそが社会的に位置づけられなければならないという固執でした(当時の私はそういう事業意思を自覚できていませんでしたが)。


倫理といっても、漠然とした人文的考察ではなく、苦しむ人のための具体的な手続きや窓口が必要です*3。 しかし逆にいうとその「手続きと窓口」は、実定法と裁判所では足らない。 弁護や再検証の手続きそのものが、人文的熟考の実務でなければならない。 その少なくとも一部を、私は貴戸氏の時に(多くは自分の必要として)敢行したのだと思います。


私は、アカデミシャンだけを責めているように見えるかもしれませんが、そうではなくて、むしろこの検証の手続きを、どんなポジションにいる人にも引き受けてもらいたいと思っています(「メンバー」全員)*4。 私が怒っているのは、ご自分が従う正当化の作法を検証もせずにただ居直る人に対してであり、それには「ひきこもる人」も含まれます*5。 といっても、私が PC(Political Correctness)に陣取っていて、メタ・ポジションから周囲を攻撃しているのではなく、不首尾に生きられた自分も含め*6再検証の事業を共有することでしか、関係を継続することなどできない。ベタに生きられた関係*7のさなかに、再検証の事業をこそ位置づけようとしているのです*8。 自分たちの状態や関係をベタに肯定することを*9、ほとんどアレルギー的に拒絶している(症候としての倫理。身体があるかぎり治まらない)。


精神科医が診断につかう DSM も、司法実務が依拠する実定法も、《居直ってる》ように見え(judgemental dope*10、私はそれとは別の検証手続きをどうしても必要としている。――そしてそこで直面するのが、集団的意思決定の問題です。 DSM も実定法も意思決定のツールであり、その「書かれた物」をいったん反故にするとしたら、どうやって意思決定にいたるのか。 私が「判断力喪失」をまずいと思い、いっしゅの現象学的還元に基づいた再分節を必要としているとしても、それはあくまで私の必要であって、集団的に合意された要請ではない。


私がお返事に引用した『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』をご購入いただいたとのこと、恐縮です(参照)。 実はこの論集に参加しながら、その方法論「制度を使った精神療法Psychothérapie Institutionnelle、略して PI)」に私が抱いた疑問の核心こそが、《集団的意思決定》でした(参照)。 この本が論じる PI は、個人/集団の関係や精神の組み上がるプロセスが制度的に固定されることのまずさを扱い、それを本人(メンバー)の制作プロセスが内側から分節し、組み直す、それがそのまま臨床行為になるだろう――という内容なのですが、
その努力が集団内部でなされる以上、何らかの意思決定の手続きを経なければ、単に孤立した呼びかけか、さもなくば強制的に周囲を巻き込む作業にしかならない――ということが、論じきれていません。 その意味で、この本じしんが、調査倫理ならぬ臨床上の倫理を解決できていない、と感じています。


医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』は、その集団的な臨床過程が《政治的》であるとも論じていますから(個人と集団の制度的ふるまいに介入するのですから)、これは非常にまずい欠落です。 合意手続きがなければ、呼びかけに応じてもらえない挫折に直面するのは当たり前です*11。 『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』の最後も、「EM の研究成果をどう利用するかは、組織やそこにおける実践を変えるのに最もよい位置にいる、当該組織の構成員にかかっている」(大意)と終わっていて、「では EM の結果が*12無視された場合はどうすればいいか」は描かれていません。 EM でもそうだと思うのですが、PI では結果への同意だけでなく、《分節プロセス》にも何らかの協働が必要と思われるため(ミーティング)*13、そこに合意形成の手続きがないように見えるのは、かなり致命的です*14


それは、政治的・倫理的にまずいだけではない。 自分の置かれた場所をていねいに分節する作業は、完全に丸裸に自分をさらけ出すような自己曝露(言いふらすというより、現象学的還元という意味で)を要求するものですが、合意形成できないまま晒されるとなると、危険きわまりない*15。 いわば、激烈な罵倒にむき出しになったナイーブな詩人みたいなものであり、ますます自意識とルサンチマンをこじらせてしまいます。 そして周囲の「メンバー」は、手続きもなしに即興詩の朗読(と推敲)に付き合わされ、合意を求められる――分節過程に着目すべきとはいえ、これではどうしようもありません*16


ここで大きく、

 EMPI において、《集団的な合意形成》はどういう手続きと、位置づけを持つのか

というテーマが、前景化しているように思います*17


私が参照したもう一冊の『臨床社会学ならこう考える 生き延びるための理論と実践』は、「買おうという気には まったくならん」(参照)とのこと。 私はこの樫村氏の本からも示唆を得たので、私と酒井さんでは、やろうとしている議論事業はすっかり違っているかもしれません。 しかしそれでも EM には参照価値があるように見えるし、酒井さんに向けて説明しようと苦しんだことは、非常に貴重な機会でした。
あらためてもう少し、お返事の努力をしたいと思います。



*1:お忙しい中、ありがとうございます

*2:裁判官が条文を引っ張ってきて解釈するように

*3:それがなければ、調査する側にとっても、される側にとっても危険です。いろんな立場の人が、一つのケースを協働で考えなおす機会もありません。これでは、いちどトラブルが起きたらおしまいです。

*4:「EM の研究成果は結果的に批判力を持つ」 「(その研究成果を)どう利用するのか(略)は、組織やそこにおける実践を変えるのに最もよい位置にいる、当該組織の構成員にかかっている」(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.255-7)

*5:judgemental dope」が、学問的・価値観的に糾弾されるばかりでなく、臨床技法のレベルで対策が問われなければならない ⇒これは根本的です。 「引き出すか、引き出さないか」というのとは、問いのスタイルが変わってしまっている。

*6:自分をメタ的=PC的にアピールする規範的な政治運動と、ここが根本的に違っています。 私は「自分が正しい」とメタに言い張っているのではなく、《再検証事業》の共有をこそ呼びかけています。 うまく自覚しきれないまま生きられた私たちの直接的生は、検証されるべき素材であり(EM 的にいえば「リマインダ」)、みずからをそのように見なし合う関係をこそ求めています。 (多くの左翼系知識人は、弱者や被差別民にのみ恥ずかしい「当事者発言」をさせ、自分はPC的にふんぞり返っています。)

*7:「医師/患者」、「研究者/対象者」、恋人同士、あるいはふつうの人間関係など

*8:筒井淳也氏が指摘されるように、「親密圏は、市場にも政府にも代替できない」(参照)。 とすれば、自前で親密性の方法を編み出さねばなりませんが、私はここで論じている検証事業が、重大なヒントだと思っています。 いきなり親密になろうとするのではなく、《関係性の検証作業》の共有を通じてこそ、関係を維持できないかどうか。

*9:関係性のベタな肯定には、その場を支える「メタなアリバイ」があります。 私はそこをこそ分析しようとしている。

*10:「判断力喪失者」(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.77)参照

*11:私は、PI 的趣旨の呼びかけを斎藤環氏に行ない、往復書簡を降りられてしまっています(参照)。

*12:それどころか EM という事業そのものの意義が

*13:エスノメソドロジー研究においては、研究自体に組み込まれている協同作業の量が半端ではない」 「EM 本出版にあたっては、ミーティングを重ねることができた」(参照)という酒井さんのお話を、私はここに重ねていました。 EM は、まさに秩序改編を集団でおこなっているのではないか、と。

*14:この問題は、私の参加した座談会で取り上げています。 『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.235-6 と、p.239 以降の「追記」

*15:私の続けてきた《当事者発言》はこういう性質のものですが、数年前まで(とくに初期)は、ズタボロになりました。 自覚なき還元である自己曝露は、ていねいな方法論を伴わなければたいへん危険です。

*16:お気づきと思いますが、これはいわゆるポストモダン系の議論がつねに陥る難点のように思います。 「声の複数性」等々の規範的要請にはある部分で答えていても、合意形成の手続きが発明されなければ、それは「詩作品に付き合わされる」ようなものであり、そんな方法論的立場を、司法や医療の現場でどう正当化できるのか。 私はまだ勉強し始めたばかりですが、「ポストモダン法学」と言われる議論でも、「解釈の複数性」が問題点になっていたと思います。

*17:調査や臨床の倫理だけでなく、「なぜ支援現場で、反感を買うような(アカデミックな)言葉を使うのか」 という、酒井さんのご質問にも関わります。 反感を買うとすれば、合意形成に失敗しているわけです。