「親密圏での滞留」という独特の事情

  • ひきこもりは、交渉能力のない個人が、親密圏に滞留した状態。これは親密圏独特の事情による。この事情を、法学や公正さのロジックで斬る試みが必要だ。一方的に家族や社会に有利でもまずいが、一方的に本人に有利なのもアンフェア。いずれにせよ、ひきこもり独特の事情に即したフェアな交渉や介入のロジックを分節する必要がある。▼家族との交渉関係を拒否してひきこもることは、追い詰められた果ての不可避的な姿とはいえ、あるいは無自覚にであっても、「弱者としての交渉術」であり得る。同居している家の中で閉じこもられれば、家族は暴力をふるう以外には本人を家から追い出すことができない。 【参照:「たった今、ニート兄を家から強制排除した」】
  • 「追い出されるなら死ぬ」という態度を無自覚にでも示せば、それは「自分の命を人質にとって家族を脅す」という構図であり得る。家族としては、「死んでもかまわないから追い出す」という選択肢もあり得るが*1、実際に死ぬ確率が高い本人を追い出すことは難しい*2
  • ここでひきこもりは、親密圏における「力関係」の問題として浮かび上がってくる。弱者の問題であると同時に、力関係の分析が必要になる。家族という私人間で交渉関係が破綻していて、しかもそれが基本的には、無能力ゆえの「家族へのしわ寄せ」の形をとっている。社会保障機能を肩代わりしている家族が抱え切れなくなって無理やり追い出しても、サバイバルは難しい。▼病気や障害ではなく、ただ量的な「能力の低さ」でしかないから、社会保障(再分配)のロジックには馴染みにくいと思う。 “健康な”メンタリティを持っていれば活かせるような条件が目の前にあっても、活かせない。社会全体でケアの優先順位を決めようとするとき、ひきこもりが優先されるとは思いにくい。――逆に言えば、ひきこもりの交渉能力の問題は、現代人の滞留状況改善へのヒントを含むかもしれない。度外れて交渉能力の低い人間が数十万人規模で生じていて、そのメカニズムは、なんとか社会参加を続けている人にも無関係ではない。(ひきこもりが数千人規模ならば、単に見殺しにされて終わりだと思う。社会はすべての人をケアすることはできない。)
  • 本人を暴力的に追い出そうとすることが暴力であり得るのと同様に、家族にとって不本意な形で本人がひきこもり続けることは、家族への不当な暴力であり得る(器物破損や家庭内暴力がなくとも)。とはいえ、それは本人の交渉能力の低さからきていて、いわば愛情関係における、不可避的な「住居の不法占拠」のようなことになっている。▼扶養家族に対して住居侵入罪は適用できまい。「不退去罪」としてのひきこもり?――というように、法律の言葉を導入する試みを考えている。ひきこもりが私人間における力の関係の問題であるなら、法学的な議論の導入は正当化されるはずだし、それは結果的に、“臨床的”にも機能しそうに思う。あるいは実定法の学習は、交渉能力の向上という観点からも“臨床上”有益だ。




*1:問題は扶養義務を問われないかどうか。

*2:そもそも、追い出したところで問題は解決しない。ひきこもっている本人は、端的に、交渉主体として破綻している。数十万人規模でこの対処法を選択できるだろうか。