社会的位置づけや正当性

  • 病気でも障害でもなく、役割理論的に位置づけにくいが(斎藤環)、社会生活を営むための「交渉能力」が低く(理由は複合的*1)、不可避的に家にいる状態。統合失調症に見られるような「精神の質的異常」はないが、量的に能力が足らないために、社会的に disability*2の状態にある。 ▼個人の交渉能力が極端に低いために、単に労働問題に解消することもできない。
  • 「交渉能力の低さ」については、社会参加を継続している人との間に質的切断があるわけではない。だから線引きして差別化するというよりはグラデーションで考えるしかないし、「どのように支援するのか」については、交渉関係において「大目に見てあげる」の程度問題で考えるしかない。それは線引きによる差別化ではないから、秒単位でお互いの関係のあり方(ハンディのつけ方)を変えてしかるべき。ただし、制度としての支援機構が動くためには、明確な線引きとカテゴリー化が必要(そのカテゴリーは、不当な差別にも使われる)。
  • 家に居るしかない状態は、ケースごとに、あるいは時間経過とともに、状態の内実が変わり得る。最初は苦痛に満ちていたものが、やや緩和してくることがあったり、逆により深刻化したり。たいていは、硬直して苦痛に満ちたまま良くも悪くも安定してしまう。フレームが固定してしまうと、変動を起こすのが難しくなる。▼交渉能力の低い主体として社会参加に益が見出せずそうなっているなら*3、結局はその状態を本人が「選んでいる」としか言いようがない。そうであるなら、扶養負担を負う家族との間で交渉関係が必要になる(さもないと不当な住居占拠になってしまう*4)。
  • とはいえ、その状態を「選んでいる」といっても、他の選択肢との間を自由に行き来できるような状態ではない。他の状態を選ぶことが「無理」と思われているから、その状態に強迫的に固着している。本人にとっても家族にとっても、その状態は絶望のままに硬直していて、変化が期待できない。「そのままでは死ぬよ」と言っても動けない場合、それは「死ぬことを選んでいる」と言えるのかどうか。病気ではないから、社会保障は期待できない。
  • ひきこもりにおいては、近代的な社会生活が前提とする「本人が選んでそれをしている」という話が成り立ちにくい。社会要因と主観要因がないまぜになって、そうするしかなくなっている。引き受けてその状態にあるとはとてもいえず、「苦しい」「やばい」「このままでは死ぬ」と思っても、そこから離れられない*5。 ▼その状態を公正さの観点からどう評価すべきかは、各ケースごとに微細に検証するしかない。家族が承認していて、経済的にも余裕があれば、「本人の苦痛」以外には問題化する理由がない。その状況の是非は、交渉関係の中で決められる。(マクロな社会との関係をどう論じればいいか、今の私にはまだよくわからない。よく保守系の人が「税金を払っていないからフリーライダーだ」というのだが、それは厳密な法解釈としてもそうなのか。)




*1:再帰性」ほか

*2:参照:「impairment なき disability

*3:参加することが不利益しかもたらさない。いじめ・犯罪被害・人間関係でいいカモにされる・など。「生き延びてよかった」と思えることが想像できない。性愛的にも職業的にも承認の機会は見込めない。

*4:ここに左翼系の解釈が侵入し得る。「社会変革運動としての、意図的ボイコットとしてのひきこもり」というような。 柄谷行人不登校を「ボイコット」と説明していたが(参照)、不登校も引きこもりも、まずはそのような自覚的な行動ではない。

*5:地獄のように苦しくてもそこから離れられないというのは、斎藤環の指摘するとおり、依存症の事情を想起させる。