私はもちろん摂食障害のことは分からないし、客席にも不登校・ひきこもりの関係者のかたが多かったようですが、主催者の方々*1としては、「ひきこもりに取り組むことを通じて見えてきたメタな問題枠」*2を話してもらえれば――とのことでした。 それが、結果的に摂食障害にとっても意味があるはずだから、と。 ▼講演会の前後も含め、個人的にはものすごく充実した時間でした。 【関係者の皆さん、ありがとうございました。】
ひきこもりは8割が男性であり、摂食障害は9割が女性*3。 どちらについても、多くの当事者・ご家族は、精神科医・カウンセラーなどが提供する「専門家情報」に絶望しており、苦痛の激しさにもかかわらず、「どのようにアプローチすればよいのか」の土台部分が揺らいでいる。――ディテールは違うものの、共有できるモチーフは多いと感じます。
不登校・ひきこもりの業界には、80年代から続く「病人扱いへの抵抗」の歴史があり、現在の論争もその延長上にありますが、摂食障害の業界では、「病気なんだから治療するべき」という枠組みが圧倒的に支配的であり、言説状況がかなり違っているようです*4。 ひきこもりに比べ、「短期的に命に関わる状態像である」というのも、大きな理由でしょうか。
講演では、次のようなことを中心に話しました。
- 「治療」「解決」というスキーム(考え方の枠組み)自体に、苦痛の一端があるのではないか。
「悩み方を間違っている」という気がしてしょうがない。 ▼「考え方の枠組み」それ自体が苦痛に関係しているとしたら、その事情全体を再検討できるのは、個々の薬物や権威ではなくて、「状況をメタに考えなおす分析力」だけだと思う。
《治療》という枠組み自体を、分析的に再検討する必要がある。 ▼それは、治療という方針を一方的に悪者にすることではないし*8、あるいは、当事者というポジションを一方的に絶対化することでもない。 その意味で、これは関係者全員が自分のポジションを通じて為す「自己分析」、状況全体の社会的自己分析(再検討)ということになる。
*2:こんな表現ではなかったですが、おっしゃっていたのはそういう意味だったと思います。
*3:ただし摂食障害では、多くのケースが事実上の「ひきこもり」状態になるとのこと。 ▼「ひきこもり」というと、「完全に家に閉じこもってしまう」というイメージを持ちがちですが、多くの事例においては、たとえば「深夜にコンビニに出かける」などの行動が見られます【参照:KHJ親の会:「2005年「引きこもり」の実態に関する調査報告(サマリー)」(PDF)、あるいは井出草平(id:iDES)氏の修士論文、など】。 ▼ひきこもり問題の本当の核心は、「対人関係や社会参加がいっさい持てない」という事情にあります。
*4:ブログ『sociologically@はてな』(井出草平氏)が、摂食障害に関する最近の動向を精力的に取り上げておられます。
*5:強いて言えば、「解決」と呼び得るのは、「そのような事情にあったことを、いつの間にか忘れてしまっていた」時点だろうか。 ▼これについては、また継続して考えてゆく。 「症状を生きる」というラカン的モチーフ、など。
*6:会場からもご指摘を受けたが、この《交渉関係》は、親子間だけでなく、医師・支援者、知り合い、ご近所、被雇用先、行政との関係なども含む。
*7:公共哲学など。 ▼「言い分を全て聞き入れる」とは、実は「相手にしていない」ということ。(小さな子供に対するような態度)
*8:「治療」という方針を選択する人が居てもいいはず。