「二、三年心理療法受けたら治るんじゃね?」(hotsumaさん)

 上山さんは(精神科医ともそもそするのに必要なせいか)人格障害概念を時々参照しているようだけど、その定型的治療としての心理療法、それを生業とする心理療法家の存在にはあまり関心がないようだ。

心理療法、と素っ気なく書かれていますが、これだけ百家争鳴で立場が乱立している状況でこのご説明では、一つ一つの学派への場当たり的で素朴な順応しか見えてきません。これでは、最終的な「社会順応」を着地点として示しているだけです。 「順応していく」というプロセスに何が賭けられているのか、まったく問われていません。 ▼「どれを選べばいいのか」。 ひきこもりにおいては、権威性や規範への順応そのものがクリティカルな問題になっているので、これは非常に本質的な(臨床的な)問いです。信仰すべき宗教を選ぶような逡巡がある。
私が問題にしたのは、精神薬理学であれ、心理療法であれ、その専門性にベタに殉じるだけでは問題になり得ない、あるいは対応できない事情や状態像です。 たとえば、家から一歩も出ない、会おうともしない事例をどうするのか。 その抵抗は、単に病気や障害なのでしょうか。 「お前を治療してやるぞ」という制度的な目線は、それ自体が再帰性や関係構築にとって害悪であり得ます。 ▼そもそも、自分で自分を「まともな状態にする」という操作的な発想が残る限り、再帰性の問題は手が付けられていないままです*1再帰性というのは、「運転方法を意識すればするほど自転車に乗れない」という比喩が示す事情です)。
たとえば私は、大学院の心理・臨床の授業にお招きいただいた際、《交渉》という要因を強調したのですが、臨床心理系の方々からは、《交流》という要因を投げ返されました。再帰性への対処としても、私は「交流」ではなくあくまで「交渉」を強調したいのですが、その議論は、単にディシプリンに順応していたのでは設定できないものです。――私は、こうした議論の組み直しこそが重要だと考えており*2、そうした提起自体がパフォーマティブに、専門性との関係を《交渉化》しています*3

 臨床例であっても15ヶ月間ほど認知行動療法を行えば59%は診断基準を満たさなくなってしまう(LeichsenringとLeibing,2003)。

各種療法や面接室に興味を示さない事例については、何ができるのでしょうか*4。――逆にいうと、薬や心理療法への転移まで含めて、臨床家や家族がどう機能するかについての、分析的な検討が要ります。薬や各学派の心理療法にベタに頼るのではなくて、それがどう機能し得るのかについて、ややメタに検討すること。 ベタな「治療」関係には興味を持てなくとも、メタな検討なら共有できるかもしれないし、少なくとも転移状況を分析し、動的に変化させる(風通しを生み出す)、その営みに本人を巻き込むこと。
気になるのは、臨床家や社会学者たち自身の、情報処理のルーチン化です。 「専門家」として自分を提示することは、ひきこもりで問題になる再帰性や主体の実体化(参照)を、支援者自身が既存の専門性へのベタな順応で乗り切ることであり、主体の構成が、ベタな専門性フレームに限定されてしまいます。それはご自分が、決まったフレームにおける「社会的に有用な道具」になることですが、その方針(ディシプリン)で対応できない事情や存在は、ルーチンの外に位置してしまい、黙殺されてしまう。――ひきこもりにおいては、専門家が単に自分を道具として提示するだけでは扱えない事情が問題になっている、というのが私の立場です。

 上山さんは議論を単純化するために、精神科医の臨床を戯画化しすぎだし、ひきこもり事例の治療可能性を低く見積もりすぎだと思う。

戯画化しているのではなくて、事柄に即した複雑さをリアルタイムに扱えるよう、努力しているのです。 既存のルーチンのみを問題にしていればいいとは、どうしても思えません。





*1:斎藤環はこのあたりの事情を、「操作主義」として検討している【参照:『こころの科学 136 解離』掲載:「「解離とはなにか」とはなにか」】。 しかし、理論と臨床を切り分ける斎藤のメタ批評の目線は、現場で操作主義を禁欲するより以前に、最初から操作主義の形をしている。

*2:組みなおされた議論枠をそこで固定するのではなく、この「組み直し」自体をリアルタイムに続けてゆくこと。専門性への習熟は、むしろその組み直しと交渉のためにある。

*3:ひきこもる側も、ひきこもる状況自体が交渉関係であることは否認できない。また逆に、支援者や家族が制度的目線への順応しか考えないのは、交渉という煩雑な手続きの簡略化・ルーチン化にあたる。一から取り組みなおす交渉努力を、枠組みの決まったサービス契約に置き換えること。 ▼臨床上の課題は、「交渉できるようにすること」であり、固定した枠組みを内側から破壊できるようになることとも言える。

*4:しつこいようですが、精神薬理学であれ心理療法であれ、取り組んで成果をあげられる事例が存在することを否定するものではありません。