力関係は不可避だから、「交渉能力の向上」が課題になる

  • 社会復帰しようと思ったら、競争主義の会社であれ、弱者擁護の運動体であれ、人間と人間の力関係に巻き込まれずにいるのは無理。交渉弱者としては、どこに所属しようとつらい目をみる、それは避けられない。問題は、「どういう力関係にだったら巻き込まれてもやっていけそうか」ということ。それぞれの人間関係(中間集団)に機能している独特のロジックに早く気づく必要がある。
  • 弱者擁護や労働問題を主眼とする左翼系の運動は、ひきこもる本人を主体化するために一定の役割は果たし得ても、その運動自体がつねに「前衛党」を気取るため、「知識人が弱者を指導して威圧する」という構図をとる。弱者であるはずの個人が反論すれば、その反論自体が権力への反抗と見なされ、徹底的に潰しにかかられる*1。 弱者を威圧する構図にもぐり込むことで居場所をもらう、というぐらいの冷たい計算が要る。 弱者擁護は、同時に弱者差別の構図でもあり得る。 ▼資本家は労働力の購入で搾取するかもしれないが、左翼的な運動は、労賃すら払わずに精神と労働力を収奪することがある。解釈権はすべて運動体に独占され、協力を要請されたときには無償で引き受けるのが当然とされる(ことがある)。正当な対価を要求すれば、「守銭奴」のような扱い。イデオロギーレベルで「絶対的な正当性」を確保したつもりのナルシシズムがあるから、夜郎自大の恫喝も許されると思い込んでいる。――とはいえ、こうした人たちの活動が、リアルポリティクスにおいては弱者を救うことがある。そういう状況に(交渉主体として)付き合う必要がある。
  • ひきこもりを単に自発的選択と見なす人は、成功体験に満ちた自分の人生からひきこもりを想像している。交渉能力の高い人間にとっては「やればできる」ことが、できない人には「またあれが始まる」の恐怖のトリガーでしかない。▼東京シューレ的な「不登校は選んだもの」という解釈言説(参照)は、自己責任論を助長してしまう。やむにやまれずそうするしかなくなっている、という不可避性を斟酌した上で、「公正さ」と「サバイバル」の吟味が必要だ*2。 本人の状態はケースごとに、また時間経過によって変化やバリエーションがあるから、一元的に「追い出すべき」「肯定すべき」云々と言えない。サバイバルを考えれば、永遠に閉じこもることはできないし、具体的に交渉能力の向上を目指す必要がある。経済的独立うんぬんの前に、交渉主体として独立する必要がある
  • 交渉能力を高めるには、本人の情熱やスキルアップだけでなく、制度や規範環境の整備が重要。▼労働組合は労働者の交渉能力を高めることを目的とするはずだが、ひきこもることしかできないほどの人は、労働組合自体に耐えられず、孤立してしまう。孤立は、これ以上ないほどその人から交渉能力を奪う。ひきこもるメンタリティは常に、自分の交渉能力を奪う方向の言動に向かってしまう。




*1:誇張して聞こえると思うが、こういう構図が底に潜んでいることは見抜いておくべきだと思う。

*2:この点で斎藤環に同意。