自分が固執すべきだと信じる現実にこだわるのは、迷惑行為であり得るとともに、倫理的行為でもあり得る。
何が迷惑行為で何が倫理的行為なのかは、力関係や政治的決断の問題*1。
社会参加できない存在であるひきこもりについて考えていると、「交渉」「契約」「政治」云々という、僕がいちばん苦手で嫌っていた話題に吸い寄せられてゆく。
ひきこもるとは、交渉関係で破綻した状態だから、本人もバカをやっている。そういうフェアな検証のテーブルを作ったうえで、「交渉能力」を高める必要がある(お互いの問題)。
ひきこもっている人の一部は、エゴで身勝手というよりは、バカ正直に正義を信じ込んでしまうタイプに見える。揉め事が起こりそうなときには、自分ひとりが我慢して丸く治める、というような。自分が我慢するときには、みんなも我慢するものだ、と根拠なく思い込んでいるような。みんなが道徳的に生きるのが当然、というありもしない理想社会への幻想をいつまでたっても捨てられない。誰が我慢して誰が我慢しないのか、それは力関係のリアル・ゲームで決まるもので、「これが正しいじゃないか!」と叫んだところでどうにもならないという最低限のリアリズムすら受け入れられないというか。
ひきこもる行為が正しいか間違っているかという以前に、「交渉能力がない」*2ことの成れの果て。問題は、交渉能力がないまま放置されるべきなのか、ということ。 ほっといたら死ぬよ。