ひきこもり――家族の側に、拒絶の権限はないのか

前回は、国が扶養を押し付ける「扶養義務」を調べてみたが、実際にひきこもる人が「扶養しろ」と訴えを起こした事例は見当たらない*1。 基本的には、暗黙の威圧、感情的な暴発、身体的な暴力などによって、なし崩しに扶養が続いてしまう。 よく「親が甘やかすのが悪い」と言われるが、本人のはまり込んでいるただならぬ無能力(沈黙であれ饒舌であれ)に抵抗するのは並大抵ではなく*2、暴力で外部社会との関係性を強要しても、長続きしない。――とはいえ憲法との関係では、扶養義務者の生活が守られなければならない。

二宮周平家族と法―個人化と多様化の中で (岩波新書)』 p.150-152 より(強調は引用者)

 生活保護法は保護の補足性を原則とする。保護は、生活困窮者が自分の資産、能力その他あらゆるものを自己の最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われ、さらに民法の扶養義務者の扶養、その他の法律による扶助が生活保護よりも優先して行われる(生活保護法四条)。つまり、自己責任と私的扶養が公的扶養よりも優先するのである。

 どの義務者でも、 (a)自分に扶養能力があること、 (b)扶養権利者が要扶養状態にあること、 (c)実際に権利者から扶養請求されたこと が要件であり、これらがあって初めて具体的な扶養義務が発生する。 私的な扶養である以上、扶養を受ける意思のない者に具体的な扶養請求権の発生を認めるわけにはいかないのである。

 私人間(しじんかん)でなされる扶養である以上、義務者自身の生活を犠牲にさせてまで、他者の扶養を強制することはできない日本国憲法も、国民の生存権と国によるその保障義務を規定している(二五条)。この規定との関係でみれば、民法が扶養について規定するのは、近親者の扶養義務を強制するためではなく、無限に広がる可能性のある私的扶養の限界を示すためであるといえる。



病気でも障害でもないならば、本当に「要扶養」かどうかが問われるし、本人自身がそこで苦しむ。 扶養される権利を明示的に主張することは、むしろ引きこもりとは反対の「社会的なアクション」であり、そういうベクトルがないからこそ困っている。(本当に積極的に「扶養してくれ」というアクションがあれば、それこそ明示的な交渉関係に入り得るだろう。ひきこもりは、交渉能力の低さとして成り立っている。*3


いちばん時間とエネルギーを割くべきなのは、お互いの考え方への批評的介入や、家族・職場・地域での関係性の再構築という臨床的な取り組みだが*4そもそも「ひきこもり」は紛争として維持されており、ひきこもる側にさまざまな葛藤や怒りがあるのは事実でも、扶養する側の家族にも、筆舌に尽くしがたい負担が生じている*5。 扶養義務者と名指された側には、発動できる強制力や、それを支える法解釈はないのだろうか。――これは、いきなり結論を出すことではなく、《交渉》というフォーマットの整理にあたる。

    • ひきこもりは、直接的には無能力の問題であり、法律で自立を強制しても解決するとは思わない(単なる強制は逆効果か、少なくともたいへん危険だ)。 家族・職場等の関係性や、無能力を形作る独特の事情である再帰性に取り組まなければ、問題そのものに取り組んだことにはならない*6。 しかし、ひきこもりそのものが紛争として体験されており、お互いに納得できない状況がある以上、双方が活用できる強制力はすみずみまで検討しておく必要がある。 強制力を持つことは、お互いの交渉関係に影響をもつ。 それも含めての、「制度を使った方法論」だろう。 ▼そもそもひきこもりは、紛争として、内在的に社会関係を生きているとも言える*7。 何が「やむにやまれぬ状態」であり、何が「理不尽な居直り」なのかは、ケースごとに、またリアルタイムに判断するしかない。



・・・・ここで気づくのは、どうやら家族内に導入できる強制力というのは、あまり見当たらないということだ。 法律は、家族間の問題には関与しないという基本的性質を持っているらしい。

  • 法は家庭に入らず古代ローマ]】
    • この法格言は、家庭内の問題については法が関与せず自治的解決にゆだねるべきであるとの考え方を示すものです。 民法の協議離婚制度(当事者の合意があれば、裁判所の関与なく、届出のみで離婚できる制度)や刑法の親族間の特例(窃盗、詐欺、横領などで夫婦や一定の親族には刑が免除)などに具体化されています。 なお、家庭内における虐待や暴力について、近年、いわゆる児童虐待防止法やDV防止法が制定されるなど、この法格言を超えて積極的に法が関与する例も見られます。 参議院法制局法制執務コラム集 〜法格言」)

家族内の暴力(ファミリー・バイオレンス)については、「児童虐待」、「高齢者虐待」、「配偶者間暴力」についてしか、特化された法律が見当たらない。

子の立場にある者が中年期までの親や親族にふるう暴力については、ふつうに暴行罪等が想定されているらしいが、「なにもしないでひきこもる」ことについては、条文らしきものが見つからない*8



扶養義務を担う家族の側から、「正当な理由もなく*9ひきこもることは、家族に対してあまりにも大きな精神的苦痛と、経済的打撃を与える。これは、家族への暴力と同じである」という解釈から、法的な訴えを起こすことは可能だろうか。 身体的暴力はわかりやすいが、言葉の暴力、さらには「なにもしない」ことを暴力と言えるか。 家族の中で「なにもしない」ことは、法的にはどういう手続きに乗せることができるか。

 本法にいう「配偶者からの暴力」は、いわゆる精神的暴力も含む概念である(法1条1項)が、そのうち保護命令の対象になるのは「配偶者からの身体に対する暴力」、すなわち配偶者からの身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすものである(法10条)。つまり、精神的暴力は保護命令の対象にはならない。 Wikipedia - 配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(DV防止法)

これを見るかぎり、「なにもしない」ことによる被害が、保護命令の対象になるとは考えにくい。


同居も扶養も望んでいない家族が、ひきこもる本人との関係に切断線を入れるために活用できる条文や法解釈が、見当たらない。 だとすれば、ますます自律的で臨床的な中間集団の方法論が問われる。 ▼家族そのものが小規模の集団であり、また社会参加にあたっては、中間集団が決定的なハードルになる。 この《集団》の問題に取り組むという観点が、現状のひきこもり論にはない。
強制力の導入や条文の活用を通じて、まさにその中間集団そのものの改編や生き直しが、あり得ないだろうか。 ひきこもるとは、「この状態でしか生きられない」という絶望でもあると思うのだ。*10



【追記】

    • このエントリーを推敲する作業自体が強く精神分析的な効果をもった。 「書いて推敲する」という作業はいつもそうだが、今回は特に。
    • ひきこもりは、病の「実体」であるというよりは、「関係を作ろうとするときに再生産されるスタイルの病」というべきだと思う。意識を生き直そうとするときに、つねにはまり込んでしまうパターンがある。本人だけを異常視していても、そのパターンを再生産するだけ。実体化して処遇を考えるよりも、関係性と労働過程の臨床にこそ取り組まなければ。――そこで、制度分析や介入*11が問題になる。
    • とはいえ、本人自身が強硬に「病のパターン」に固執する場合には、分析と介入自体に強制力が要る*12。 これはもう、治療の問題ではなくて政治的交渉関係の問題だ。 だとすれば、意図的に暴力を誘発して相手を排除することすら、選択肢に入るだろう。 最終的には、「臨床なのか、政治なのか」というあたりの判断になりそうに思う。(政治には臨床的方法意識が必要であり、また臨床は、それ自体が政治化されねばならない。)




*1:無理やり引き出す局面での暴力性については、「名古屋地決平18・12・7」などがある(『引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判』p.83-112で、顛末が記されている)。

*2:ほぼすべての事例で、初期には説教等が試みられている。 ご家族は、徐々に「これはただごとではない」と気づき、口数が少なくなってゆく。

*3:ボーダー系や自己愛系の人たちは、むしろきわめて巧妙な交渉能力を発揮して、疾病利得(しっぺいりとく)や不当なポジションにありつこうとする。――こうしたことをケースごとに検証し直すためにも、お互いを当事者化する《交渉》というフォーマットが必要だ。 《交流》という要因を基本に据えることは、かえって不毛だと思う。

*4:ご家族は、「無理に放り出せば死んでしまう」と恐れてもいる。 社会保障は難しく、ご家族の扶養能力は有限なのだから、周辺社会への合流が、臨床課題にならざるを得ない。 ▼ここでは、ひきこもる本人だけを異常視するのではなく、合流をめぐる試行錯誤そのものが、社会に輸出されるべきだろう。 私たち一人ひとりはお互いにとっての《環境》であり、また社会参加を維持することの難しさは、誰にとっての課題でもあるはずだ。

*5:形式的に「ひきこもりの全面肯定」と言っても、それを扶養するのは誰なのか。 正義を装った形式的な権利主張は、同意者の負担を忘れている(参照)。

*6:家族や職場で、分析的な介入のプロセスそれ自身が臨床的な意義をもち、関係を作り出す。――とはいえそれは、強制力を持たない。 孤立した分析や介入は、危険行為とすら見なされる。

*7:論点の実存そのものとしてのひきこもり。 ▼タイトルとしての『論点ひきこもり』は、こういう意味だった。 このときの趣旨が、その後の「制度を使った精神療法」への取り組みにつながっている。

*8:憲法に「勤労の義務」はあるが、憲法は国家権力を制限するもので、私人間の権利義務や、刑罰の対象になる違法行為を記したものではない。

*9:ここが最も揉めるところだ。 何がどうであれば「正当な」理由なのか。

*10:本エントリーに関連しては、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.239-244 掲載の拙論をぜひ参照してほしい。

*11:当事者化や「制度を使った方法論」

*12:これはひきこもりに限らず、職場の環境改善でも言えること。