「本人が、自分で語ってみる」

法学(訴訟法)でいう「当事者」とちがって(参照)、ひきこもりや不登校の支援業界では、「当事者」はもっぱら弱者=逸脱者のことを指すが、そのことが議論を硬直させているように思う。
弱者が為す「当事者発言」は、単に特権化して優遇するためではなく、力関係の分析と再構築のために提出される――そう考えるべきだと思う。弱者を差別的に優遇する態度は、必要な一ステップだとは思うが、「弱者に無理に語らせる」という態度にもなりかねない*1。無理にでも語らせるべきなのはむしろ強者ではないか。(いずれにせよ、言葉の提出は政治的な振る舞いだ)


「本人が、自分で語ってみる」という作業については、法学・哲学・精神分析など、いろいろの文脈を参照して検討する必要を感じている。詳しくは今後の課題だとして、今はその発言ポジションを、大きく次の二つで考えている。

    • (1) 利害やトラブルの関係者
    • (2) 差別的に特権化された弱者

既存の「支援」の文脈ではどうしても(2)の意味ばかりなのだが、私はむしろ(1)の一部に(2)があると考え、統一的に考えたい。関係者の全員に対してフェアに考えるフレームを作るには、そのほうがいいと思うから。それに、自己分析の労苦が弱者にばかり負わされるのはおかしい。支援者も含めた関係者全員が担うべき課題だ。


「自分の現実について、自分の言葉で語る努力をしてみる」という作業の意義は、大きく次の二つだと思う。

  • (a) 力関係を分析するための素材提供。
      • 弱者が語ったとしても、いきなり主張が受け入れられるわけではない。
  • (b) 生きづらくなっている「自分の現実」の、語り手本人による再構築。
      • 語ってみて初めて「自分の考えていたこと」を理解できることもある。

(b)は、過剰流動性ほかさまざまの事情で混乱した自己統御に、とっかかりを作ること。交渉や契約という、もっとも基本的な行為に必要な能力が弱くなっている。社会的行為を営むのに必要な政治的能力が失われている(主体化の困難)。その能力を賦活するために必要な契機としての「当事者発言」。その「当事者発言」は、強者や弱者に関係なくお互いに対等な権利を持つ。またその当事者発言は、あくまで分析や検証の素材であって、無条件に肯定されるべきものではない。


現実の関係の構築自体が、ある特定の力関係の再生産になっている、そのことを分析的に考える必要がある。「学者のアカデミックな議論」と「現場で実際に苦しんでいる人の格闘」がすれ違うことについても(参照1)(参照2)、それぞれの現場が巻き込まれている当事者性において、制度分析や自己分析が必要だと思う。
「当事者」というのは、最初から「関係」において成り立つものであり、当事者性を分析するためには、最初から制度分析を伴う必要がある。それが「自分の引き受け方」の問題であるという意味では、自己分析も必要だろう。「実際に何が行なわれているか」について、その力関係について、徹底的に分析してみる必要があると思う。私たちの経験の風通しを良くするために*2
それを弱者がしているだけでは、ダメな自分のポジションを制度的に再強化して終わる気がする*3。むしろ強い立場にある人間こそが、制度分析と自己分析(当事者的な自己分析)を行なう必要がある。力のある人間の自己分析こそが、社会的に物騒な事件であり得る(それゆえ抵抗も強い*4)。
「当事者」という概念は、社会関係の分析的な再構築を目指すものであり、「関係者」とほぼ同義で理解すべきものと思う。そういう意味での「当事者発言」、つまり「関係者による分析的な発言」が、政治的にきわめて重要に見えてくる。
「当事者」というのは、何よりも政治的な概念だと思う。





*1:貴戸理恵不登校について指摘していたことだ。 参照:『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

*2:今の私にとって、「幸福」は、「風通しの良さ」にかなり近い。

*3:「懺悔」「告白」がそうであるように。

*4:「スキャンダル」と似た話になる。うかつに強要しても、無視されるか消されるか・・・。