ひきこもりを全面肯定する資金は誰が出すのか。

ひきこもっている人への援護射撃として、「全面肯定」というスローガンが有益な局面はあると思うが、その構図自体を硬直させてしまっては、その後の家族内での話し合いが成り立たない。 ▼そもそも「全面肯定」は、「それをすれば本人は社会復帰してくれる」というエサとともに提示されているが、そのような前提つきでは、ひきこもっている本人までが運動体の思惑に巻き込まれている。(いくら扶養されても、就労や中間集団への参入は無理かもしれない。運動体には運動体の中間集団のロジックがある。)
支援者が理念的にまず担うべきなのは、イデオロギー覇権主義による威圧ではなくて、「交渉関係の調整役」だと思う。 【本人にとっては、そうした関係の能力向上こそが、そのまま社会訓練であり、「ひきこもり支援」ではないだろうか。 ひきこもるという状態は、交渉の果実でもあり得る。(交渉の果実ではないひきこもりは、家族への暗黙の威圧でしかない。)】

    • 本書は、「革命主体としての引きこもり」に、「親に活動資金を出させろ!」と呼びかける本にも見える。 ▼「ひきこもり問題は、活動家のイデオロギーを正当化するためのおいしいネタではないのか」との疑念を、複数のひきこもり経験者が漏らしている。