スケープゴートとしての斎藤環

斎藤環氏は、本書では非常に無造作に、死亡事件を起こした団体の責任者と並び称され、非難されている*1
斎藤氏は、「初期と比べて考えが変わってきた」と自分で語っているが*2、彼の出発点が、ひきこもりへの過剰な否定を含んでいたとして、その後の変化の方向が、本書の主張するような「全面肯定」(硬直した承認イデオロギー)でしかないなら、私はいずれの立場をも支持できない。


今の私は、斎藤氏の立場とその変遷を、「公正さ」および「欲望の倫理」との関係で検証すべきだと考えている。――そのフレームは、実は斎藤自身が主張し始めたことだ*3。 以前の、あるいは現在の斎藤の発言は、どこがどう間違っているのか。 本人自身に問い直す価値はある。 ▼ひきこもりについては、それを単に治療や暴力の対象にすることも、単に全面肯定することも、「公正さ」と「欲望の倫理」に反している。 私が、《交渉》というフレーズを多用するようになったのも、まさにこうしたフレームへの賛同を意味している。


個別の支援者や論者、あるいは個別の事例の是非については、その都度そのつど、検証を繰り返すしかない。 そのしんどさをまぬがれようとするときに、「治療主義」とか、「全面肯定」とかの、大味のイデオロギーが出てきてしまう。


ひきこもりの扶養関係は、終局的には、ご本人が家族との間でもつ交渉・契約関係の、特殊な事例とみなせる。 だとすれば、その関係をどう転じてゆくかは、各ケースの当事者(本人+ご家族)に託すしかない。 ▼意思決定の最終的権限が、個別の交渉当事者にしかあり得ない以上、「どんなケースにも適用できる無条件に正しい決定」というものは、原理的にあり得ない。


「どんなケースに直面しても、自分の提案は無条件に正しい」などとは、間違っても言えない*4。 関わって発言しようとする私たち自身が、個別ケースに即して、流動的であいまいな立場に晒され続ける。


本書執筆陣の言説が今後も検証可能であるように、斎藤環の言説も、スケープゴートにして済ませられるようなものではない。 ラカン派の倫理に固執しつつも、臨床現場のあいまいな実態にこだわり続ける斎藤氏の議論にこそ、私はむしろ対決価値を感じている。







*1:とりわけ、高岡健氏の論考とシンポ発言

*2:講演会など

*3:たとえば、2003年12月刊の『ひきこもり文化論』 p.164(もとの文章は2001年発表)、p.28など。

*4:このあたりを厳密に検証しようとすれば、やはり「正義」や「リベラリズム」についての、法哲学的な議論を参照せざるを得ないと思う。 とりわけ、野崎綾子正義・家族・法の構造変換』の扱うような、「親密圏での正義」の問題を。