「全面肯定」のイデオロギーと、「オルグ」的支援契約

芹沢俊介氏が一部紹介しているように(p.234-5)、「ひきこもりの全面肯定」は、実際に一部の当事者に肯定的影響を持つのだと思う*1
それは、「無条件に承認される」という呼びかけに応じて、承認イデオロギーの繭(まゆ)の内側に出てきたにすぎないのだが、この状態に親が資金を出すのであれば、それは「引き出し的な支援」として、(事後的にでも)契約関係が成り立ち得る。 あるいはそれは、ひきこもり問題を媒介にした、一種の思想運動(弱者承認のイデオロギー)に、本人が自分の苦痛を通じて興味を持ち、そこに親が資金を与えるという構図になる。
この思想運動の本当の主体は、支援される当事者本人ではなく、「覇権的なイデオロギー」そのものだと思うが*2、このイデオロギーへの賛同を通じて、誰でも「承認される」ことができる。 親も、活動への「支払い」において承認され、ひきこもる本人の肯定を通じて、家族ぐるみで承認される。――まさに「オルグ」の手法を感じる。

    • 【付記】: ひきこもりの支援活動は、多かれ少なかれ、「思想運動」という色彩を持つと思う*3。 社会参加できない人間の存在が問題になっているのであり、それはいかにして承認され(否定され)、あるいは社会にかかわるべきなのか*4。 こうしたひきこもり論は往々にして、非常に下世話な人生論にも堕する。 ▼「ひきこもり」を論じることは、さまざまな論者の試金石であり得ると思う。






*1:芹沢氏のいう「存在論的ひきこもり」は、「自分の現実をうまく構成できない」と感じ(参照)、ハイデガー存在論に慰安を見出していた私には、一部説得的に聞こえる。 その問題意識は、たとえば宮台真司氏の「過剰流動性」に重なるだろう。

*2:人を手段として使い捨てにする革命運動のイデオロギー

*3:支援者は、良くも悪くもアクの強い人が多く、それぞれが独立独歩。 お互いに主張を譲らず、高い頻度で仲違いする。

*4:薬剤しか認めない姿勢も、それはそれで思想的選択だ。