さらにいくつか


支援者として承認される基準は?

執筆者の一人である山田孝明氏(「情報センターISIS」ネットワーク代表)は、親御さんに相応の対価を要求して活動を続ける「支援者」の一人。 ひきこもっている本人に、外部世界との関係を作り出しているのであり、その意味に限っていえば、本書のいう「引き出し屋」*1と何も変わらないはず。
つまるところ、支援論のディテールがどうこうというよりは、芹沢・高岡氏らの承認イデオロギー(その覇権)に同意するか否かが、評価の基準(逆踏み絵)になっていないだろうか。



「解釈枠」と「インフラ利用」の峻別

精神科医としての斎藤環」に苛烈な非難をおこなう高岡健氏は、自身が精神科医なのだから、「精神科医であることがいけない」というわけではないはず。
「医療主義であるかどうか」と、「インフラとして医療サービスを利用するかどうか」は、明白に峻別して論じる必要がある。 そうでなければ、「医療サービス拒絶の覇権主義イデオロギー」になってしまい、それ自体が強圧的な全体主義になってしまう*2
支援サービスの消費者である当事者に対しては、医療インフラや薬剤の利用が、選択肢としては残されておく必要がある。



アリバイ作りのもたれ合い

順応主義的医療主義や、野蛮な暴力主義に対しては、本書と共に明白に抗議する必要がある。
とはいえ、その抗議の自明な正当性が、論者自身の「アリバイ作り」になってはどうしようもない。 「我々はひきこもりを全面肯定しているのだから、正しいのだ」。
忘れられた思想を抱える活動家がひきこもりを肯定し、あらゆる世間的価値観から否定されたひきこもり当事者が歓喜する。――そこには、否定された者同士の持ちつ持たれつの関係がありはしまいか。(他人事でない)



「全面肯定の道は地獄に通ずる」

ひきこもりを無理やり引き出そうとする人たちの「善意」について、「善意の道は地獄に通ずる」というのだが(芹沢俊介)、これはそのまま、「ひきこもりの全面肯定」についても疑われてしかるべき。 弱者擁護という「善意」は気持ちいいだろうし、実際に必要な局面はあるのだが、その信条それ自体が、破滅への道であり得る。 端的に、お金はどうするのか。









*1:本書に限らず、「ひきこもっている人を無理やり社会復帰させようとする自称支援者」は、一部経験当事者などによってこう呼ばれている。

*2:cf.林尚美『ひきこもりなんて、したくなかった』 p.62〜65