公正な当事者論と《去勢》――「欲望の道」かつ「作戦遂行」

【本書の直接の内容とはやや離れた、抽象的な議論になるが、「ひきこもっている人を擁護するかどうか」ということと、それにまつわる当事者や支援者の《去勢》というテーマについて、少しだけ今の私の立場を書いてみる。】


「他者の存在(生命)を無条件に肯定する」という姿勢は、往々にして別の他者を恫喝する口実になる。 それは自己分析の拒否であり、去勢否認にあたる。 これについては、「当事者」周辺のモチーフとして、徹底的に検討する必要がある。
本人にとっても、周囲にとっても、「当事者性」は、去勢否認の口実ではなく、去勢という欲望の道に従事する端緒である。 ▼また、去勢される必要があるのは、欲望そのものの要請であると同時に、去勢否認*1の状態が不利だから。 去勢は、交渉関係にまつわる事情からさかのぼって要請される。


去勢の成功は、語りの帯びることのできた説得力に即してのみ測られるのではないだろうか。 自分に対して説得力が発揮できなければ、熱意をもって語ることはできない。 相手に対して説得力をもてなければ、もちろん説得することはできない。
「どんな道ゆきでも熱を帯びることができる」というふうには、私たちはできていないと思う。 去勢の道ゆきは、恣意的に選ぶことはできない*2。 長期にわたって運営することが可能な「現実の構成」を生きるために、去勢のロジックを確認し、整理することは、必要な作業だと思う。




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*1:「去勢されない」のは、理論的には「精神病」になるらしい。

*2:cf.「欲望の倫理と「構成の自由」」 ▼単なる差異の戯れではなく、「説得力=リアリティ」の熱を帯びる必要がある。