意識的なひきうけ(想像的)と、無意識的なひきうけ(象徴的)

一般には《去勢》は、「現実原則にのっとって欲望を断念すること」とされている。 しかしラカン派においては、むしろ去勢は、「欲望を断念しないこと」の過激さのうちにある【参照:「欲望が満たされたと思い込んではいけない」】。 ラカンにとっては、順応主義的な現実原則は、むしろ欲望の大義にそむいている。
ループ化してしまった去勢否認が、無意識の欲望を封じ込める。――それを「無意識的な引き受け」=「欲望」と呼んでよいものだろうか。 (あるいは、「引き受けたがっている欲望」?)
ひきこもりについて斎藤環の指摘する「実体化」は、元来成立しているはずの象徴的なひきうけ(=欲望)を、封殺している。 それは切断的な自意識とナルシシズムを担保するかもしれないが、他者を際限なく黙殺し、みずからの無意識的な欲望に戦術上の不利益――というより無能力――をもたらしている(参照)。