主観的意図と、集団の体質

  • 「どんな人でも受け入れる」というイデオロギーが、逆に場所の思想を均一化する。 すると、その場を支配する承認ロジックに嗜癖した人が、異端的分析を糾弾し始める*1。 小集団での「思想の多様性」は、そんなに簡単な話ではない。
  • 主観的に標榜された運動イデオロギーで、正誤を判断してはならない。 主観的には、たいてい「正しく思えること」しか言っていない。 考えるべきは、「その思想は、どのような《つながりかた》をもたらしているか」。
  • 集団の体質を問われるべきであるのは、一流企業も、大学も、ヤクザも変わらない。 もちろん身近な友人も、家族も。
  • 孤立した相手には居丈高なのに、相手が「強い」と、その集団体質まで全面肯定してしまう――こんな話しかできないのであれば、生きられた集団の体質が無批判に押し付けられるしかない*2


*1:参照:「レポート 『不登校は終わらない』 不登校の経験やその本人を肯定しようという趣旨が正しいということと、それを標榜した集団がどういう体質であるのかは、別の検討課題だ。

*2:社会参加に成功した人は、たいていは順応できた自分をベタに誇示するだけで、《生きられた順応》を検証するモチーフがない。