転移の作り方

東浩紀の「概念のキャラ立ち」と、三脇康生の言語様態分析*1での、転移させ方の作法の違い。 東では実体的キャラクターが転移の入り口だが、三脇では、制度分析して外部と疎通させる感じがある(だから精神の窒息に劇的に機能する)。 実体的キャラを転移の入り口にするのは、けっきょく表象の帝国に閉じ込めることでしかない*2
「立ち入り禁止の柵内」で秀才たちが何か言ってるけど*3、内容を押し付ける*4のではなく、柵の内側と外側の関係性自体を分析してその分析をこそゲートにしないと、関わりが作れない。 内容を “専門的” にしてあとはナルシストをナンパするのではなく*5、分析が分析であるからこそ、本気で分析を考える者には外部からでもいきなりアクセスできる――というスタイルを目指す。
「わきあいあい」を求める人*6は分析を忌避し、むしろ相手の専門性ナルシシズムに迎合することで自分のナルシシズムを得ようとする。 自他のナルシシズムを穏便に扱うことで場を乗り切る方法は、問題を先送りにし、問題の核に直面する能力がない。



*1:概念自体の社会的生態、発生来歴を検討する。 【参照:三脇康生「MaxiGraphicaと言語様態分析・「版画」という言葉を考古学することの意義」(『関西現代版画史 (美学叢書 7)』p.302-314)】

*2:そんなところで知性競争してどうするのか。それこそ分析のナルシシズムだ。

*3:「柵の外」にいる側が卑屈になっている場合にも、分析は成り立たない。▼ここでいう「柵」は、直接的な所属ではなく、分析スタイルの問題だ。 「在野だが柵の内側」とか、「アカデミズムだが分析に対して卑屈」があり得る。

*4:それでは見下して「入門しろ」と言ってるだけだ

*5:宮台真司に口説かれる学生たちは、「ナンパされている」という自意識に乏しく見える。

*6:「交渉」よりも「交流」を優先させるタイプ