schizophrenia――危機の臨床

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は副題を「Capitalisme et schizophrénie」といい、2006年に出た新訳でも「資本主義と分裂症」と訳されているが、「schizophrénie(schizophrenia)」は2002年以降、「統合失調症」と呼び名が変わっている(参照)。
「分裂症」の語をあえて採用した理由を、訳者の宇野邦一は次のように記している。

 近年、日本の医学界は、〈分裂症〉に替えて〈統合失調症〉という名称を採用するようになったが、この本は〈分裂症〉をいかに肯定的な「過程」として理解するかを本質的な課題としている。〈統合失調症〉という、それ自体あらかじめ否定性を含んだ命名によっては、この本の主旨をよく表現することができないと考える。
 (『アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)』p.394)



ジジェクは、ドゥルーズ=ガタリが「schizophrenia」を賞賛しているのではないかと批判している。

 今日の資本主義は――これは思ったほどばかばかしい見解ではないように思えますが――、臨床的な意味においてですら、文字通り私たちを狂気に駆り立てているという意味で、心的限界となっているとまで考える社会心理学者も何人かいるのです。
   ――(質問者)これは一種捻れたかたちのドゥルーズガタリなのでしょうか。
 実質的にはドゥルーズガタリの反対だと言ってよいでしょう。なぜなら彼らには資本主義の分裂症、悪いパラノイアという観念があり、それが良い革命的な分裂症へ爆発すると考えているからです。しかし、思うにドゥルーズガタリは、狂気を、ある種の疑似−精神医学的に称賛することに危険なまでに近づいているのではないでしょうか。狂気とは人々が苦しむひどく恐ろしいものであり、そしていつも思うのですが、狂気のなかに解放的次元を試したり、見出したりするのは間違っているのです。いずれにせよ、社会心理学者が言及している限界は、それよりずっとわかりやすいものです。例えば、アメリカの概算によれば、少なくとも70%の研究者や教授がプロザック、その他の向精神薬のたぐいを服用しているのだそうです。これはもはや例外ではありません。文字通り、働くために私たちはかねてから精神薬剤を必要としているのです。ですからこれが限界なのです。つまり私たちは単純に気違いになり始めているのでしょう。
 (『ジジェク自身によるジジェク』pp.212-213)



三脇康生がこのジジェクに反論している。 以下、「ジャン・ウリドゥルーズ=ガタリの比較を行ないながら、ラボルド病院の病院環境を巡る思想について考える」*1より(引用にあたり、略された人名等をわずかに付け足した)

 内海健統合失調症の患者から求めるべきは精神分析家が考えるような転移 transfert ではなく「信頼」であるとしている。

 惚れ込みとは我々神経症者の生が枯渇しないために必要な妄動である。分析治療の枠組みのなかでは、転移という特異な現れ方をする、恋愛に限らず、それは世界を色づかせ、われわれを行動へと駆り立てる。こうした観点からみれば、惚れ込むことのない統合失調症者の世界は、平板で無味乾燥なものに映るだろう。……しかし関係性とは、転移の系に限られるのだろうか。むしろこうした限定が、統合失調症に対して精神療法の可能性を閉ざす元凶になってきたのではないだろうか。彼らは決して妄動しない。またむやみに人を魅きつけることもしない。とはいえ、いかなる関係も持ちえないのではない。ここで「彼らにはもう一つの関係を造る能力があるのだ」という Balint(1968)*2の言葉を思い起こすべきである。……この関係性は、「惚れ込み」のような怪しげなものではなく、端的に言うなら「信頼」である。
 (内海健統合失調症の精神療法可能性について」、『精神療法』 Vol.31 No.1「統合失調症の精神療法」、10−11項)

(中略) ジャン・ウリはこの内海の論とは反対に、「信頼」という言葉のかわりにまさに転移という言葉を使う。内海=中安のような医者から患者へのすばらしく倫理的なかかわりがあったとしても、それが治療の前提であると認めることにやぶさかではないにしても、週一回の外来診療ではなく長期の入院ともなれば、その医者のいる病院の雰囲気、スタッフの関係性が大きく患者に影響を与え始めるだろう。



「病院の雰囲気、スタッフの関係性」までもが《制度》として論点化され、みずからを含むその環境への分析と組み直しが臨床に活かされる。――ここで三脇が内海を批判しながら論じている「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」は、ひきこもり支援に「応用される」のではなく、それ自体が内在的にひきこもり臨床の形をしている。そこでは、理論と臨床は(斎藤環のように)分けられるのではなく、具体的に理解して分析することが、そのまま臨床行為になっている。 「心理」を分析するのではなく、すでに生きている制度(関係や心の態勢)を分析する――そういう意味での「場の自己分析」が、「制度分析」と呼ばれる。 心と関係性は分離されないし、メタなアリバイで逃げることもできない。関係も態勢もすでに生きられている。具体的な関係のなかにいる以上、制度分析は全員で問題になる。その意味で、弱者だけでなく全員に当事者性がある。


以下、三脇康生の同論考(p.147)より。(ここでの注は引用者による)
統合失調症についての議論だが、ひきこもり支援にとっても示唆的。
超自我」については、「支配的な制度」と理解できないか。ここでは、その場その場での権威性(課せられた去勢恐怖)の組み直しが問題になっている。 ひきこもる人は、むしろ過剰な去勢恐怖に萎縮している*3

 統合失調症の患者の転移を治療に用いることを否定する(内海健の)論では、超自我は社会に一つしかないかのように語られている。病院も社会の一部だからそれでもよいのかもしれない。転移を治療に用いたといえば、治療共同体の運営がそうかもしれないが、内海はこのような共同体のあいまいなありかた(がゆえに患者を「共同体」に飼い殺しにし、今度は社会復帰ブームに乗ってSSTsocial skills training)のプログラムの重要性を繰り返し喧伝するだけの左派たち)に怒りを持って、(研修医らを含む若手の医師の)啓蒙に力を入れ始めているのかもしれない。
 いずれにしても神経症圏内の転移をそのまま統合失調症の治療の際も禁忌として内海は呼び出している。しかしウリは患者のいる場の超自我を、社会で流通しているものとは変質させようとしているところがある。そうでなければ患者は居場所を持たない。もちろん、それは患者の囲い込みに繋がるというラボルド病院批判も存在している。しかしそれに対して、ウリは来日した際に*4、「患者はラボルド病院を中心にしてゆっくり社会には出ていくのだ」と主張していた。もちろん、社会の超自我を解体してしまうつもりはウリにはない。

 場において超自我アドホックに構築すること。これがウリの戦略であり、ウリにとっては、場が重要だった。それが病院でも学校でもエッセンスであった*5。 資本主義とある程度の折り合いをつけながら、その場の超自我を再構成する。すると想像界で生じる出来事が幅を利かしはじめる。しかしそこで生じることを享楽jouissanceのレベルにとどめないようにしなければならない。 そうしないための仕組みをラボルドに作り出そうとするのである。 それがラボルドに存在するクラブやアトリエの機能である。



統合失調症は、病いの問題として「自己の成立」が難しくなっている。 ひきこもりにおいては、病気とは別のかたちで「自己の成立」が難しくなっており、それが再帰性や自己の実体化に落ち込んでいる*6
斎藤環のように、ひきこもっている人を「そーっと」大事にするだけでは、「戦場」という比喩で語られる実社会との連続性が扱えない(参照)。 ひきこもり臨床そのものを《交渉》の一元論で捉え、「個人の政治化」の為される政治的現場として捉えるべきだと思う。 自己の成立とその弱体化を、政治的に――つまり、アリバイや泣き寝入りの場で起こっている事態として――捉えること。 支援・臨床の場を《政治化=交渉化》し、そのための分析と関係の組み替えを行なうこと。 臨床の取り組み自身が、間違ったアリバイや泣き寝入りにならないように。





*1:掲載は、平成15-17年度 科学研究費補助金(基盤研究(B)(2)) 研究成果報告書 『病院環境をめぐる思想――フランス精神医学制度の歴史と現状から見えてくるもの』(研究代表者:多賀茂) pp.139-157 ▼この引用箇所とほぼ同趣旨の文章が、雑誌『思想』2007年6月号 三脇康生精神科医ジャン・ウリの仕事――制度分析とは何か」で読める。

*2:The Basic Fault: Therapeutic Aspects of Regression』。 邦訳は バリント『治療論から見た退行――基底欠損の精神分析』、中井久夫訳、金剛出版、1978(絶版)。

*3:それが「発達障害」に見える可能性が気になる。

*4:ジャン・ウリは2005年に来日している。 【参照1】、【参照2】、【参照3

*5:制度を使った精神療法」とまったく同じ趣旨を持った、「制度を使った教育学(pédagogie institutionnelle)」の運動もある。こちらは、ジャン・ウリの兄であるフェルナン・ウリ(Fernand Oury)が唱導者。 ▼同教育学に取り組むジャック・パン氏が2006年に来日した際、私はひきこもりについて質問した(講演レポート)。

*6:参照1】、【参照2】、【参照3】、【参照4