身動きが取れません―― 千葉雅也のドゥルーズ論



動かないものを、動かそうとすること。
あるいは動きすぎるものを、止めてみること。
そのバランスとタイミング――これは臨床や芸術にとどまらず、*1
生活者として必要な、日常的・具体的な配慮だろう。*2


このモチーフが、哲学史にどういう位置づけを持ち得るか。
本書はその整理において、たいへん有益だった。*3


《非意味的な切断》に照準し、それを実務的にも提唱する本書は、哲学的に洗練された「ひきこもりのススメ」にも見える*4。 その観点から、私がもった疑問は:

  • 切断は、「どうにもならない」に陥りがち
    • 千葉氏が描き出した切断は、どういう困難に直面するだろうか。――そこでの技法を考えなければ、この議論は無意味に終わるか、あるいは有害であり得る*5。 「学問と実務は別」と言っても、知的言説は私たちの環境要因だし、そもそも千葉氏の議論は、みずからが実務的な(マネジメントの)提案を試みている。
    • 「切断したくても、お金の問題があって切れない」「仕事で接続したいけど、徹底的に切られる」「だから家族に依存≒接続するしかない」「家族に見捨てられた、死ぬしかない」*6――ここで切断や接続は、コンセプトの問題ではない。→作業過程に照準せざるを得ない。
    • 非意味的切断といっても、「やろうと思ったらできる」と思うだけなら、流行語によるナルシシズムの増幅でしかない。「スキゾ・キッズ」には、なろうと思ってもなれない。


  • 非意味的切断を楽しめるのは、すでにうまくやれている人たち
    • 「切る」を選べるのは、基本的に立場の強い側だ。
    • 《非意味的に切断し、接続しなおせ》のスローガンは、(a)政治的打算で知り合いを切断し、「寄らば大樹の陰」で有力者に接続する振舞いや、(b)酷薄なリストラ案、あるいは、(c)マスコミの横暴――などを追認するだけになる。*7
    • つまり「非意味的」と見える切断や接続は、実はちっとも非意味的ではない。むしろ意味に満ち溢れた切断や接続が、表向きには「非意味的」を僭称することで、抑圧を強めるのではないだろうか。


――千葉氏の本は、技法論の試行錯誤になだれ込むしかない、準備段階の議論なのだ。私はそのようなものとして、積極的に受け止めた。


本書のタイトル「動きすぎてはいけない」は、
ドゥルーズの以下の発言から採られたとのこと(p.51)。*8

 旅行というのは、何かしゃべりに行って、戻ってみれば今度はこっちでまたしゃべるといったそんなものですからね。行ったきり戻ってこないとか、向こうで小屋でも作るのなら別ですよ。だから私は、旅行なんて気が向かないし、生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない。(『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』p.277)



適切な生成変化のために「動きすぎてはいけない」――私はこの説明で、ラボルド病院を思い出した(参照)。しかし千葉氏は、ジャン・ウリからグァタリに繋がるこの病院のことは、完全に無視している。*9

文献や影響関係をめぐる詳細な検討はこれからの課題として、以下で私は、千葉氏が提出したアイデアについて、いくつかの疑問を記す。



焦点は「器官なき身体」――つまり、まとまり方

動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』より:

 今ここで立ち騒ぐ経験の断片それぞれが、複数的な外部性である。これは、経験を別のしかたにする条件を経験の断片たちから得る、すなわち、経験の断片たちを複数的に超越論的なものにする立場であり、これがドゥルーズの「超越論的経験論」なのである。(p.321)

これを踏まえた上で、
最も興味深く、また最も問題が先鋭化しているのは、本書第6章の「器官なき身体」論だ。つまり千葉氏が、《まとまり≒個人化》のあり方を論じる箇所である。*10


千葉氏はそれまでに、「メレオロジカルな切断のアナーキズム」に触れた上で、お互いに無関係な断片が、ロジカルな一貫性と無縁のまま共存する状態(consistency)を描くのだが、これを次のように表現する:

 器官なき身体が成される尿道期は、あたかも象徴的に超克されなくてよい鏡像段階であるかのようであり、このことは、ラカンにとっては象徴的去勢の失敗である精神病(分裂症)をポジティブに評価する『アンチ・オイディプス』の一つの予兆ではないか(p.282)

 諸々の部分表面を想像的ファルスによって接続すること、それが、器官なき身体の形成であり、イマジネールな個体化である。(p.285)



バラバラなものが、論理的一貫性(≒象徴的ファルスによる全体化)なしに同居する、鏡像的=想像的なまとまり。この方針は、具体的な臨床技法において、北米の行動主義心理学に近づくという:

 行動学としての倫理とは、外在性の平面に乗って、というのは、自分の傾向性を不問にされて――自分=項の本質を知らないことにしておき――、様々な事物「と」の接続/切断の具合を試すことである。こうした意味において、スピノザ-ユクスキュルという合成は、ドゥルーズ英米系の文脈に重なっている。仮説的に言うならば、ドゥルーズガタリの「分裂分析」「薬毒分析」は、結果として相当に、北米の「行動主義心理学」へ歩み寄っているようにすら思われるのである。(pp.340-341)



千葉氏の方針は、はっきりしている。
バラバラなものは、たんに偶発的にまとまる(鏡像的=想像的)。苦痛緩和の取り組みがあり得るとしたら、それは「内面≒精神」ではなく、外在的な関係のレベルにしかない。アドホックなやり直しの作業だけが、臨床の実務になる。



《分析の生成過程≒アイオーン》としての持続

この千葉氏の提案には、以下のような視点がまったく見られない。

    • 作業過程としての主体化の、そのまとまるプロセスを生成と理解する
    • 分析の生成過程こそが、《有限なまとまり≒consistency》の具体化である
    • まとまるプロセスは、別の時間軸の consistency(一貫性)を生きる



千葉氏は本書終盤で、マゾヒズム*11や「ダニの待ち伏せ」を出しながら、主体化の方針を示してはいる。しかしそれは、分析が生成するという話ではないし、分析それ自体の分節過程こそがベルクソン的な《持続》であるという理解は、本書には一度も登場しない。*12


最悪の焦点は、
分析が《まとまり≒生成≒持続》のプロセスではなく、
断片の非意味的共存(consistency)であり、それが「薬毒分析」と呼ばれて、依存症それ自体と重ねられることだ。

 欲望の「直接の備給」、意識の統御から外れているという意味で、知覚しえぬものへの距離がゼロである知覚(LSDの幻覚を考えよ)が、実のところ、ドゥルーズガタリ精神分析批判にとって、きわめて重要なことであった。麻薬の問題を理解するには、欲望が知覚に対して直接の備給を行い、知覚が分子状になると同時に知覚しえぬものが知覚されるに至るレベルを考えるしかない。そうすれば、麻薬は生成変化を促す動因だということが理解できるだろう。ここには、精神分析に比較し対置すべき薬毒分析[pharmaco-analyse]がある。(pp.75-76)

 精神分析から分裂-マゾ分析へ。その展開は、心因性/器質性の敷居を薄めていく歩みでもあった。そして『千のプラトー』では、薬毒分析へと展開する。ドゥルーズガタリは、精神分析を途方もなく拡大させ、外在性の平面に他ならない世界それ自体に対する(精神)分析に、到達するのである。(p.336)



ここには、私たちを構成するバラバラな要素、その一つ一つに決定的な権限を与えるモチーフはあっても、

    • どうやってまとまりを維持し、運営するのか

については、いわば息をひそめた依存症以外に、ヒントが見当たらない。*13


かつてアルコールで破綻しかかった私には、これは《自意識過剰の依存症者が、破綻してゆく道筋を示した》ようにしか見えないのだ。


千葉氏は、

 本稿では、〈複数的な外部性における個体化〉を、事物それ自体の経験において問うことになる。個体化、それは、諸部分の離散性(バラバラであること)を無みせずに、隙間だらけの身体をかろうじてまとめることである。(p.33)

と書くのだが、
「かろうじてまとめる」という課題は、抽象的お題目として掲げればうまく行くのではない。《それは分かっている、でもどうすれば?》――これこそが問いではないのか。 現に生きられた破綻は、どうすればいいのか? 私はこの技法を問うている。


要約:

  • いずれの器官なき身体も、メレオロジカルなヒューム的断片ゆえに可能になるが、ウリ/グァタリは分析の生成過程(時空間的に有限)に照準し、ベルクソン的持続を生きる(時間軸と内在平面を自ら生成しつつ)。*14
  • それは単に鏡像的なまとまりではなく、かといって、単一の欠如に統御される構造主義ホーリズムでもない。必然性をもった分析の生成過程は、まさに無私的≒ self enjoyment な没頭と言える。*15
  • 分析の生成する環境を整備することは、患者側とスタッフ側の共同の、集団の課題である。(グァタリならば、これが社会全体の話になる)



バラバラの断片が鏡像的にまとめられただけの「自我」(p.282)は、ひどく防衛的にならざるを得ない。みずからのまとまりを壊す要因に対しては、恐怖症的な反応を示す以外なくなるだろう(私じしんが、そういう事情から自由になりきれていないように)。


千葉氏の本を読む限り、どうやらドゥルーズには、
「超越論的な経験論」という抽象的・メタ的な原理はあっても、
《生活者としての技法》については、アイデアがないようなのだ。



恐ろしいからこそ考える

千葉氏も参照したフランソワ・ドッスの伝記的著作によれば、ドゥルーズには、統合失調症の患者さんたちに対する差別的な(と言わざるを得ないような)恐怖心があったらしい(参照)。私はここに、生活者としての技法を持たないドゥルーズ哲学の限界を見ているのだが、――千葉氏(をふくむドゥルーズ研究者)は、この問題を扱ってくださらないのだろうか。*16


私じしんは、ドゥルーズ本人の主張する「思考の受動性」「自由間接話法」*17を通じて、ひとまず以下のように考えている:

    • ドゥルーズがスキゾを考え続けたのは、それが怖くてたまらなかったから。テーマを「能動的に」選んだのではなく、いわば目を離せなかった。
    • みずからのスキゾ・フォビアへの取り組みとして、ドゥルーズはグァタリとの共同執筆を必要とした。つまりドゥルーズは、技法的配慮の染み付いたグァタリの言説身体に憑依することで、(いわば自動書記ならぬ憑依書記として、)独自の分析を生成できた。
    • 原理としては、ヒューム的な「断片化≒無関連化」を確認した上で、生活者としては、ウリ/グァタリの技法を参照せざるを得ない。



ドゥルーズが患者さんたちを《切断》し、近寄ろうとすらしなかったことについては、たんに「非意味的」と言って終わらせることはできないはずだ。



スキゾ・キッズは、「ひきこもる人たち」だった

 スキゾ・キッズの本性は、受動的・惰性的な非知における切断ではないのか。このことは、特定の対象への集中、視野狭窄、常同的な所作――「自閉的」な――にさえ、通じているだろう。むしろ「ウォークマン中毒者」こそが――正確に言えば、異なる対象への中毒=依存をザッピングしている状態こそ、スキゾ・キッズの実情ではないだろうか。(本書p.36)



これは千葉氏が浅田彰氏に、肯定的なあいさつを送った形の一節だが、まさにこれこそが、疑問の焦点でもある。

無人島(千葉)や砂漠(浅田)を肯定し、バラバラな趣味的依存を言祝いでも、それは不安定や切断を喜べる既得権側を(現状のままでうまくやれる人たちを)追認することにしかならない。


浅田氏は30年前、「スキゾ・キッズ」と言ったが、それは社会現象としては、「ひきこもることしかできない人たち」を予言しただけではなかったか*18。たんにバラバラであること、あるいは意識や関係の技法として、「依存症のザッピング」しか知らないことは、それだけでは、破綻や死にしかつながらない。



「何年ものあいだ、いったい私は何をしていたのだろう」

    • 《ほとんどのモナドは、或るとき自らが地獄に落ちると感じるものである。こんなときは、明晰な知覚が次々に消えてしまい、それに比べればダニの一生でさえ奇妙に豊かに感じられるほど闇に迷い込んでいる。しかしながらふたたび、自由へと関わることになって、一つの魂が自己を克服し、回復したことに驚き、このように言うときも来るものである。「なんてことだ、何年ものあいだ、いったい私は何をしていたのだろう」と。》(ドゥルーズ襞―ライプニッツとバロック』p.160)

 絶望的な不能性に陥った者にとっては、〔…〕 けれども、成功は予定されていないのだ。すなわち、再合流するべき唯一の昼は、もはやないのだ。私たちは、別々の明るみを発明するために、別々の暗い底で待ち伏せているのである。〔…〕 共通のパスワードはない。私たちは、特異なしかたで暗号のいくつかを切りとり、特異なしかたで分析しなければならない。非意味的に、特異なしかたで。(本書pp.351-352)



引用部分のドゥルーズは、まるで引きこもる状況をそのまま描き出したようであり、それを受けた千葉氏は、再活動の手探りを、描こうとしたようでもある。


そしてやはり本書では、それは《抽象的なテーマ》に留まる。
「切断そのものに、思想史的背景を通じての自信を持とう」という以外には、具体的な技法の提示はない。


今後必要なのは、タイトル「動きすぎてはいけない」が準備的に示すように、《具体的にはどうすればよいか》という技法論を、議論の核心に据えることだ。


【追記的な続き:「嗜癖、個体化、党派性」】


*1:「止まっているものを《動かす》ことが、芸術と臨床の仕事だ」――これが私の基本理解になっている参照

*2:臨床は、病院だけにあるのではない。私たちの生活実務は、すでに否応なく《臨床的》だ。医師免許がなくても、私たちは「本物の意識」「本物の関係性」を、生きてしまっている。常にすでに、今この瞬間にも営む実務だから、「医師に任せておけばよい」というわけにはいかない。

*3:たとえば、「接続的ドゥルーズベルクソンで、切断的ドゥルーズがヒューム」「接続的ドゥルーズの極端化は、存在論ファシズム」という指摘など。部分と全体、接続と切断をめぐる言説やモチーフに、どのようなタイプがあるか。

*4:思想的な視点から引きこもることを推奨した本としては、次の二冊がよく知られている。吉本隆明ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)』、芹沢俊介「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる』。これらはいずれも、《調整》のために引きこもる時間を肯定するという意味で(大意)、千葉氏の論旨にも関係する。

*5:千葉氏は addiction(依存症)も積極的な原理として採用するが(p.356)、社会現象の実態として考えたときには、「環境からの切断」と依存症は最悪のカップリングとなる。

*6:誰かにとっての《切断≒解放》は、別の誰かにとっての《接続≒負担》を意味する。そういう「とばっちりの掛け合い」は、本書にはほとんど描かれていない。

*7:精神科病院でいえば、家族による引き受け拒否、あるいは入院拒否・転院等の問題。要するに、「すでに存在している都合が恣意的に振舞うだけではないのか」。

*8:以下、引用部分での強調や改行等は、すべて引用者による。

*9:上記ドゥルーズへのインタビューはLe pli - Leibniz et le baroque公刊時(1988年)のもので、『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』でのグァタリとの共同作業が終わって以後の発言だ。「動きすぎてしまってはいけない」という実務的モチーフが、グァタリを経由してドゥルーズに流れ込んだ可能性はないだろうか。

*10:どういう論者であれ、関係を切断する話をしているあいだは、問題が目立ちにくい。本性がむき出しになるのは、関係を作り直そうとするモチーフで何かを言うときだ。▼「無縁死」を取り上げたときのNHKが、まさにそこで つまずいていた(参照)。

*11:今後の可能性として、「マゾッホ=ヒューム的な〔そしてユーモア的な〕超越論的経験論」(p.321)は、いわゆる当事者発言、あるいは「当事化」との関係で、論じ得るだろうか。

*12:そこで生成される特異的な時間軸こそが、クロノスならぬアイオーンであるだろう参照

*13:千葉氏はp.301で、「ドゥルーズガタリにとっての分裂症は、実は多重人格的な状態ではないか」という大澤真幸の仮説を引用するが、「人々の状態がこうなっている」という取りあえずの描写は、《積極的な提案》とは別に考えなければならない。社会にスキゾ的なありかた(発達障碍や「ふつうの精神病」)が増えたことは、それ自体としては「うまく行っていない事例が増えた」だけであって、積極的な提案ではない参照。《どうすればいいか》は、分からないままなのだ。(ところが医師や学者じしんは、みずからの編成の問題を、職業上のディシプリンで誤魔化してしまう)

*14:私が國分功一郎氏と山森裕毅氏のドゥルーズ論を拝読したときにまとめた超越の経験的生成のためには、この視点に立つ。それは「経験の断片たちを複数的に超越論的なものにする」という千葉氏の説明に沿いつつ、超越論的なものを、《その都度その場での生成》として、位置づけ直そうとしている。「複数的に超越論的なものにする」というテーゼは、抽象的お題目で終わらせられない。

*15:本当に必然性があるときには、無私的な没頭と self enjoyment は矛盾しない。ここに焦点がある。

*16:ハイデガーナチス加担と比較したくなるほどの、驚くような伝記的事実だが、「ドゥルーズのスキゾ・フォビア」を内在的に扱った研究が見当たらない。(※文献等をご存知でしたら、ご教示いただければ幸いです)

*17:國分功一郎氏が『ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)』で剔抉したような

*18:発達障碍や「ふつうの精神病」が話題となっている点からも、関連が確認できる(参照)。ひきこもることは、まさにスキゾとの関連で語られているのだ。▼あるいは以下を参照: 浅田彰氏のスキゾ論】 【《逃走≒闘争》の技法