論点メモ

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

    • (1)主観的リアリティの分からなさ
    • (2)社会参加のできなさ
      • ⇒(1)と(2)は、同時に考えなければならない

「すでに成立している秩序」を事後的に外部から記述するだけではどうしようもない。記述する者は、それによって社会参加できるが*1、患者は、これから参加と秩序化をみずから営まねばならない(⇒チュートリアルの比喩)*2
事前段階で立ちすくんでいる者に、成功例とその事後的分析を提示するだけでは、「あなたもこの分析事業に参加し、そのことを通じて社会参加しなさい」という提案以上ではない。(EM は、それ自体がリアリティの構成作法になる)

  • 制度を使った精神療法》では、その分析事業への参加(主体構成や関係秩序の分節⇒再編)そのものが、臨床プロセスとなる、という主張をしている。
    • ところがそれは、場所の編成のされ方そのもの(メタ的アリバイ)に介入的な言動になるため、激しい政治的葛藤を引き起こす。
    • 場所に内在的な分節と改編を、メタな「科学的記述」という事業の固定より優先の課題とする*3。 すると、プロセスは中心化されるが、集団的意思決定の手続きは抜け落ちる。 (⇒自分のことは構成できるが、合意形成を無視する)



「取り違えの起こらないところには、行動もまた起こらない」*4 ⇒合意形成は「事前的見地からは不可能、事後的見地からは当たり前にすぎない」(『貨幣と精神―生成する構造の謎』p.25,48、大意)。 中野昌宏のこのロジックでは、商品とその生産者の形でしか、《社会化》とそれに向けた労働過程がない。 とはいえ、結果物とプロセスが秩序化される話はここですでになされている。



*1:記述側が、自分の生きる参加ロジックを固定

*2:エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.250, p.252-6

*3:場合によっては、論じている自分がその場を離れることが臨床的措置になる(自分にとっても、周囲にとっても)。

*4:自分のやっていることが社会に受容される《労働》であるという思い込みがなければ、労働が起きない。しかし、それが社会的に有用な《労働(売れる商品を生産するプロセス)》であることは、事後的(売れたあと)にしか確証できない。