臓器の形成過程であり、息をする過程そのものとしての「抽象機械(machine abstraite)」

三脇康生のフィールドワーク」より(強調は引用者)*1

 私はここで「からだによる現象学的還元」とはまさに、定常状態を制度分析によって打ち破りながら作動する仕組み、という意味での抽象機械ではないかと考えさせられた。 ガタリドゥルーズとともに作った概念 machine abstraite については、訳語として「抽象機械」という言葉が選択されてきた。
 抽象という形容詞がついているのは、人間の言うことを聞く機械、人間の使いこなせる機械を意味しないからである。 抽象とは abstrait の訳語だが、ab とは分離を意味し、strait とは引っ張る、つまり拘束状態を意味するから、abstrait で定常状態からの分離を意味している。 そしてこの抽象性は、ガタリラ・ボルド病院で学んだ制度分析のプロセスが持つ特性である。 つまり、ルーティンの状態を人間が便利に作る機械ではなく、ルーティンの状態を制度分析により打ち破りつつ機能する仕組みのことを machine abstraite と呼んでいるのだ。 機械とは machine の訳語だが、デジタルな機械というよりも、アナログな仕掛けや仕組みというニュアンスもある。

静止画としての抽象や機械(システム)ではなく、

  • プロセスとして、分節運動として実現する以外にない抽象*2
  • その抽象の運動に満たされた、作動過程にあるしかない機械

ここでは疎外が、「労働過程の硬直」として主題化されている。 疎外=硬直への抵抗は、「他者を領土化すること」ではなく、むしろ脱-領土的な、運動そのものとして遂行されるしかない。 ▼風通しのよい労働過程は、何をしていることになっているか。 単なるだらしなさや全面受容ではない、むしろ非常に勤勉な活性化のプロセスを、ドゥルーズ/ガタリは「抽象機械」と名指してみた――そういうことなんだろうと思う。 とはいえこの柔軟化は、周囲の力関係のなかにあり、孤立化や紛争をもたらし得る。

関連メモ

    • 「抽象-機械」は、息をする臓器の分節過程であり、この過程をはなれて呼吸はない。 私が阪神大震災の被災時に経験した「異様に自由な呼吸」は、これに関係している(参照)。 《日常》が壊れ、そこで余儀なくされた分離=分節が、呼吸の熱狂になる。 これは、自然回帰や「自然との合一」によるニューエイジ的な歓喜ではない。
    • 浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」*3では、観客席の定常状態に収まってしまう。 いろんなものに興味は持つが、自前の制作過程の苦しさが主題化されない。 すべてチャート化したあとの彼自身は、状況に引き裂かれながら何かを分節するわけではない。
    • 社会生活のある人たちの間では、ご自分の社会参加そのものの制作過程や、とりわけ中間集団の制作過程が主題化されない。 そこを主題化せずに「抽象機械」を論じるのは、自己言及を拒否して「中間集団の制作過程」を論じることだ。




*1:さらに詳しい解説が、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.200-1 にある。

*2:定常状態からの分離

*3:構造と力―記号論を超えて』p.6