主観と集団

フランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』p.74 より*1

 ジャン・ウリは、1960年に、エレーヌ・シェニョー、フランソワ・トスケィエスロジェ・ジャンティ――彼は1956年から1964年までサンタルバン精神科病院で働いた――といった精神科医、さらにはジャン・エーム――彼は元トロツキストで、公立病院の精神科医でつくる組合の書記をしていた――なども含めて、精神医学の実践に関する考察グループをつくる。 《制度における、制度に対する精神療法と社会療法の作業グループ(Groupe de Travail sur la Psychothérapie et la Sociothérapie Institutionnelles略称 GTPSI)》である。 これは、1955年にフランス精神医学党(Parti Psychiatrique Français)をつくろうとしたトスケィエスの計画を引き継いだものであるが、その略称 PPFジャック・ドリオファシスト党Parti Populaire Français、略称 PPF)を想起させるものだったので好ましくないというわけで、このように改称したのである。
 1960年にできたこのグループには、12人ほどの精神科医が参加するが、ガタリも1961年11月の4回目の会合から加わり、ラボルドの精神科医ジャン=クロード・ポラック、ルネ・ビドー(René Bidault)、ニコル・ギエ(Nicole Guillet)なども、そのすぐあとに合流する。 これは、1965年に、制度論的精神療法協会(Société de Psychothérapie Institutionnelle、略称 SPI)が創設されるまで機能する。 ロジェ・ジャンティによると、GTPSI の目的は、「制度における、制度に対する精神療法 Psychothérapie institutionnelle について、病院以外の場で語ること」であった。

続けて、『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』p.75 より(強調は引用者)

 この精神科医たちは、ある理論的・実践的なフィールドを確定していて、これが 《制度における、制度に対する精神療法 psychothérapie institutionnelle》 という名で呼ばれることになる。 その主たる原理は、狂人の世話は、制度が制度自体を反省的にとらえるなかでしか引き受けることができない、と考えるということである。 第二の原理は、精神病の治療は、純然たる個人的病理として社会的文脈から切り離して行なうことはできない、ということである。 こういった図式は、治療を二人の個人――病者と医師――の単純な相互作用に還元してしまう。 「制度における、制度に対する精神療法」の場合は、それとは逆に、治療は新たなアレンジメントと社会的つながりの創出を通して行なわれる。 1960年代の初めにつくられたこうした理論は、疎外から解放されて自らの自由を出現させなければならないとするサルトル的な主体概念の延長線上にある。 したがって、GTPSI が打ち出した思想は、主体集団を出現させて、従属集団――これはガタリによると「内的な法をもとにしてつくられる集団とは異なって、外部の法を受容する」――を脱構築するということである

赤字部分では、

    • 「主体集団」 groupe-sujet
    • 「従属集団」 groupe assujetti

という区分とともに、「脱構築」という日本語が登場している。
思想の核心が語られている部分なので、原文にあたってみた。

 Ces psychiatres définissent ainsi un champ théorique et pratique qui prendra le nom de « psychothérapie institutionnelle ». Un des principes majeurs est de cinsidérer que l'on ne peut prendre en charge les fous que dans une institution qui a réfléchi à son propre mode de fonctionnement. Le seconde principe est que le traitement de la psychose ne peut se réaliser à partir d'un accès supposé direct à une pathologie strictement individuelle et déconnectée du social. Ce schéma réduit le traitement à une interaction simple entre deux individus: le malade et son médecin, alors qu'au contraire, pour la psychothérapie institutionnelle, le traitement passe par l'invention de nouveaux agencements et de connexions sociales. Les thèses élaborées au debut des années 1960 sont dans le prolongement de la conception sartienne du sujet qui doit se libérer de l'aliénation pour faire surgir sa propre liberté. L'idée avancée par le GTPSI est donc de faire émerger un groupe-sujet et de déconstruire les groupes assujettis « qui reçoivent leur loi de l'extérieur, à la différence d'autres groupes, qui prétendent se fonder à partir de l'assumation d'une loi interne ». (『Gilles Deleuze, Felix Guattari : Biographie croisée』p.79)

末尾の « » 括弧内でガタリから引用されているのは、
Psychanalyse et transversalité : Essai d'analyse institutionnelle』 の以下の部分(p.42)。

 Vraie ou fausse, je ne suggère cette image que pour illustrer ce que j'entends par groups assujettis : des groups qui reçoivent leur loi de l'extérieur, à la différence d'autres groupes, qui prétendent se fonder à partir de l'assumation d'une loi interne ; ceux-ci étant des groupes fondateurs d'eux-mêmes, dont le modèle est plus à chercher du côté des sociétés religieuses ou militants, et dont la totalisation dépend de leur capacité à incarner cette loi.

邦訳*2を参照しながら、理解を確認するように訳し直してみた*3

 ...je ne suggère cette image que pour illustrer ce que j'entends par groups assujettis :
 ...このイマージュを示唆するのは、私が隷属集団(という言葉)で何を意味しているかを示すためにほかならない。


 des groups qui recoivent leur loi de l'extérieur, à la différence d' autres groupes, qui prétendent se fonder à partir de l'assumation d'une loi interne ;
 隷属集団とは、外部から自分たちの法を受け入れる集団であり、それは内的な法を受け入れてみずからを創設しようとするもうひとつの集団と異なっている。


 ceux-ci étant des groupes fondateurs d'eux-mêmes,
 後者は、自己創設的な集団であり、


 dont le modèle est plus à chercher du côté des sociétés religieuses ou militants,
 こうした集団のモデルは、宗教的・戦闘的な社会により多く求められる。


 et dont la totalisation dépend de leur capacité à incarner cette loi.
 そこでの統合は、内的法を具現することにおける彼らの能力しだいである。



ここで語られている 《内的な法 loi interne》 は、内発的に生成する制度分析のプロセス――そこでリアルタイムに分節されるしかなく、「どこか別の場所にすでに書いてある」ことが原理的にできないようなものとしての法――にあたる*4。 これを「内に秘めた信念」と理解してしまうと、わけが分からなくなる。
内に秘めた信念は、いくら思い詰めていても、それ自体としては外部からもたらされたものにすぎない。 あるいは「自分で思いついた」としても、集団を統制するイデオロギーとして固着しているなら、その都度その場で内発的に生成される分析とは言えない。 ガタリはここで、分析そのものが生きられるリアルタイムの《別の時間軸を問題にしている。 各人がバラバラに、自分のオリジナルの時間軸を生きてみせられるかどうか。 ある意味で非常に難しいことが やむにやまれぬ分節の必然性が問われているのであり*5、「信念があるんだろうな」と凄んでみせれば済むような新左翼的恫喝ではない。

私は、自分の巻き込まれた事情をそれ自体として(身体ごと生きられた緊張として)分節してみせる――そこにこそドゥルーズの言う《受動性》がある――のであり、この分節過程(という主観性の生成)は、それが許される人的環境でなければ維持が難しい。 少なくとも、そのような分節を許す風通しが生まれやすい環境と、そうでない知的環境(集団的生産態勢)がある。 その「風通しの生まれやすい環境」のことを、ガタリは「主体集団 groupe-sujet」と呼んでいる*6


内発的分節の生成を許したり、それをやめたりすることは、個人的に問われることでありつつ、集団的な主体生産のモードの問題であり、集団的な取り組みが問われている。
私一人が当事者的な分析を試みたところで、それは隷属集団としてはむしろ「隠しておきたいこと」の分節になってしまうことが多い。 また主観性の生産過程のスタイルは、《つながりの作法》であり、社会性のスタイルそのものだから、一人だけ別の主観生産をすれば、「異常」「人格障碍」のレッテルは避けられない。


ガタリ宇野邦一氏によるインタビューで、自分の事業趣旨を次のように要約している(参照)。

 私のしたことは、無意識の形成や主体性の生産を明るみに出すことを可能にするある種の《言表行為の集団的アレンジメント》(agencement collectif d'énonciation)を定義し、機能させることだ。

ここでは、
メタな理論言説と、当事者的な葛藤の両方が――というより、その関係と再編が――同時に主題化されている*7



*1:以下の引用では、訳語の一部改変、詳細な説明情報の追加、外部リンクや強調などを、引用者が勝手におこなった。

*2:【公刊中の邦訳】: 「こうしたイメージが真実であろうと偽りであろうと、私がここでそれを示唆するのは、まさしく私が隷属集団をどのように理解しているかを示すためにほかならない。すなわち隷属集団とは、外部から自分たちの法則を受け入れる集団のことであり、それは内的な法則を受け入れることによってみずからを築こうとするもうひとつの集団と異なっている。後者は、自己自身を創設する集団であり、こうした集団のモデルは、宗教的、戦闘的な社会の側により多く求められ、この統合化作用は、この法則を具現するその集団の能力に依存しているのである。」 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』p.73)

*3:間違いがあったら、ぜひご教示ください。

*4:内発的な分節過程としてそのつど生成するしかない法は、廣瀬浩司氏がメルロ=ポンティを通じて剔抉した《制度化》に近づく(参照)。

*5:取り組んでいる本人にとって、「ハードルが高い」というより、それなしではいられないような分節の必然性。 しかし多方面に不都合があるので、黙ってしまうような・・・

*6:このくだりからも、ドゥルーズによるガタリ解説(参照)からも明らかな通り、ガタリの主題は主観性と中間集団の関係そのものにある。 にもかかわらず、日本のドゥルーズ/ガタリ読解がそれを無視しているのは、あまりに異様だ。 これは、単に極左的な政治団体だけのテーマではない。日常や職場そのものの問題だ。

*7:問題になっているのは、《みずからの編成のされ方》であり、主観と集団のあり方が、倫理的・実践的な問いのモチーフとなっている。 これは、わかりやすい政治イデオロギーで周囲をオルグし、自分の当事者性(事後的検証の必要)を抑圧するダメ左翼とは、まったく別の態度に見える。