責任と正義は、《私はいかに当事者化されるべきか》と書き直せる。

社会化は、当事者性を問われることであると同時に、新たな当事者化が生じることの抑圧になっている。 意識レベルですでに正しいことになっているモノや人を、もういちど《素材化=当事者化》できるか。 自由連想で精神的なものが分析されるように、“自由になされた社会的行為” そのものの終わりなき分析(unendliche Analyse*1が要る。


資本主義には解体のダイナミズム(全員をもう一度当事者化してしまう)がある。 しかし、いちどフレームに内在化された(蓄積に成功した)人は当事者性を問われなくなる。 それに批判的な左翼も、党派イデオロギーと権力で、みずからの当事者性を抑圧する*2


すでに生きられている社会的行為の作法を分析することが、新たな社会的行為の作法になり、「関係性の再分配」*3になる。
単発のイベントに参加できても、あまり意味はない。 本当の難しさは、「長期に継続される、日常化した関係性」にある*4。 ところが、継続される関係の秘密はどこまでも隠される。――既存知識人が引きこもり問題に対応できない理由はこれ。


    • マルクス資本論は、《当事者化のロジックの秘密》を解き明かした。 現代人は、商品(の生産者)として当事者化される。
    • 右派はフレームを放置し、当事者化を要求する〔自己責任〕。 左派の当事者化には、イデオロギーのアリバイ確保しかない〔特権化〕。――それぞれの集団がもつ当事者化の作法は、《社会性》のスタイルにあたる(参照1)(参照2)。 それがそのまま、苦痛の温床になっていることがある。
    • 意識的な営みが再帰的検証に晒される近代では、個人的な努力や集団化の作法(社会性)にこそ設計思想が問われる。 反復される社会的行為は、どう設計されるべきか。 ベタな学問談義や《当事者フォビア》とは、別の方法論が要る。




*1:フロイトの表現「終わりある分析と終わりなき分析(Die endliche und die unendliche Analyse)」より。

*2:関係実態が分析されず、誇張された正当性ばかりが喧伝される。 ▼ここでいう当事者性は弱者性や被害者性ではなく、関係実態を担う責任を意味する。 ひきこもる人にも関係責任が残るし、弱者でなくとも、「どのような関係実態を生きているか」を報告することには重大な社会的意義があり得る。 誰かを特権視するのではなく、「一人の当事者的分析と、別の誰かの当事者的分析が出合い、お互いに学び合う」という契機こそが要る。 今は “当事者” を恐怖症的に特権化して終わっており、不毛きわまりない。――これはそのまま、ナショナリズムの問題でもある。 当事者性の強調に見えるナショナリズムは、じつは《素材化=当事者化》の忌避にあたる。(こう考えれば、左翼から右翼への転向はべつに不思議でもない。みずからの当事者化を忌避するモードを表面的に取り換えただけ。)

*3:樋口明彦氏の表現(参照)。 とはいえ関係性は、貨幣のように「与える形式があれば再分配できる」ものではない。

*4:同様のことを、貴戸理恵氏が指摘している。