分節生成の労働過程としての離接的総合

人間関係や社会参加がうまく行かない状態について、原理的考察を欠いたままでは、
努力が逆効果になる(努力すればするほど、悪いメカニズムを補強してしまう)ことがある*1
それゆえ、

    • 誰かとつながろうとした時に前提となっている序列や役割意識・罪悪感など 【つながりの作法】
    • 「努力するとはこういうことだ」と思い込んでいる 【努力の態勢】
    • いつの間にかはまり込んでいる苛立たしさ 【意識は時間的肉体と別の場所に存在できない】

日常的すぎてわざわざ考え直す必要がないと思われるやり方をこそ検証しなければならない。
そして、その《検証のプロセス》にこそ焦点がある*2
ふつうの考察は、検証内容そのものに注目するばかりで、この検証プロセスには付録的意義しかない。ところが、思考/肉体/関係性を生き直す秘密は、この検証プロセスにこそある。本当に必要な危険さは、このプロセスでこそ生きられる*3。――ここまで来てしまえば、考察と社会的承認は、肉のスキャンダルで満ちていることに気がつく。
以下はまったく研究途中だが、関連メモ。



安冨歩氏・國分功一郎氏のいう《同期=共鳴》と、江川隆男氏の「分裂的総合」

江川隆男氏はスピノザの実在的区別(ア・プリオリ)を、ドゥルーズ/ガタリ的な「産出過程にある実在的区別」に対比させているが、國分氏は重ねているように見える。

國分功一郎氏 というのも、共鳴=同期するとき、二つの事物の間には共通のものなどないから。二つが共鳴すると二つがもともと持っていた運動とは異なる運動が現れるわけだから。この新しい運動はドゥルーズ的には思考ということになる。



ドゥルーズ意味の論理学〈上〉 (河出文庫)』(p.302)と、江川隆男「分裂的総合について」*4より:

  • 仮言命題・結合的総合 《もし・・・ならば》 ex.「もし昼であるならば、光がある」
    • ただ一つの系列を構築 connective
  • 連言命題・連接的総合 《かつ》 ex.「昼であり、かつ光がある」
    • 複数のセリーの収束 conjonctive
  • 選言命題・離接的総合 《あるいは》 ex.「昼であるか、あるいは夜であるか」
    • 共鳴 disjonctive

 ドゥルーズ=ガタリは、この「実在的区別の理論」を実践の秩序に導入したのである。これはまったく新しい思考であり、実在的区別はもはや与えられるものではなく、産み出されるものとなったのだ。まさに脱構造論的、あるいはむしろ脱関係論的思考にとって不可欠な概念、それが新たな価値をもった実在的区別である(この〈結びつきの不在による結びつき〉――すなわち「機械的」と呼ばれる――〔...〕)。 (江川「分裂的総合について」,p.36)

    • 最初に建てられた計画の直線的結びつき(順応主義)だけでも、また単に相対主義的な弛緩だけでも、機械は生じない。

 「きみの器官なき身体は、彼あるいは彼女の器官なき身体どのように結合するのか?」と。 こうした種類の問題を分裂分析が最初から問うようになれば、そのとき分裂分析はまさに〈分裂総合〉(schizo-synthèse)になるのである。 (江川「分裂的総合について」,p.37)
 多様な仕方で自己原因を獲得した様態としての〈身体−器官なき身体〉、その限りでのこれら様態=実体は、どのようにして互いに連結・構成し合うのか。その結合の原理は、もはや無限実体あるいはその絶対的力能ではなく、実体変容した結合の様態である。 (同,p.39)

江川氏の議論は、分節過程の生成それ自体に照準しているように見える。
その分節生成がなければ、同期・共鳴で語るべき結合も生きられ得ない。


「分離しているが結合する」というより、分離しているがゆえに結合し、結合した後の状態は、結合する前と同じではない。単なる順応や相対主義ではなく、みずからが危険な内発性を生きることで、自分の構成のされ方を無底にやり直す。それが、動きの中で動きのまま生きられる分節であり、分析の生成過程そのもの。その生成を踏みにじる関係性なら、やめるほうがよい。――とはいえ、迫害的な関係しか周囲になければ? 分節過程は、同時に闘争過程にならざるを得ない*5
このような《分節=闘争》は、生態学的に位置づけられる。私たち一人ひとりは、生態学的環境の一部として、わずかずつの当事者的責任を負い続けている。これを免除され得る人はいない。



*1:目的意識を持てば持つほど状態が悪化する。努力が空回りするメカニズムの放置。

*2:「空気読めない」、「5分以内に返事ないからアウト」、「それは科学じゃない」、「患者さんだから批判できない」――こうしたあり方に、関係として生きられた思想がある。努力と関係性に、独特のチェックが入る。そのチェックのあり方にこそ、思想が表れている。

*3:分節プロセスそれ自体については、20世紀フランス思想(とりわけガタリドゥルーズフーコーなど)が集中的に問題にしている。いっぽう科学を口実にする人たちは、おのれの主観性と関係性については、そういう問題意識があり得ることにすら気付かないように見える。

*4:岩波『思想』(2007年5月号

*5:かといって、簡単に「周囲のせい」とも言えない。ドゥルーズ/ガタリの方針についてまわるように思われる合意形成の問題は、ここにある。 ⇒内発的な生成過程どうしの合意形成はどうするのか?(参照