分節の解放と、合意の手続き

いただいたお返事をあらためて通読・精読したのですが、まず核心は以下の箇所だと思います(リンクや強調は上山)

報告の中で私は次のように述べました:

  • [1] 経験科学の目標・理念は「対象に関する(真なる・新規性のある)知見を獲得すること」であり、
  • [2] 通常それは、「理論構築を介した因果的説明」とか、「理論*1-と-方法*2」といった形で定式化されるが、
  • [3] エスノメソドロジーの場合、前者[1] については通常の経験科学と一致するが、後者[2] については一致しない(=別のやり方をとる)のだ。

[1] は科学についての規範的言明です。念のため。
つまり、これ↑に反する事態──は実際にいくらでも生じているけれども、それ──が生じたときには、こちら↑ではなく・その事態のほうが棄却される、ということになるはずのもの。


そして [1] は、それを抜かしてしまうと 特定の活動が そもそも「(経験)科学(の)研究」ではなくなってしまうようなものです。 だから「経験科学」に対するいかなるリクエストも、この↑目標・理念を超えることは出来ません。



ここでは、エスノメソドロジー(EM)を「経験科学である」と主張されているのですが、酒井さんは合評会では、EM という事業に内在的な形で、ハイデガーを参照する提案をされていました。そこで、「これは科学である」という言明が、どういう意味を持つかがよく分かりません。――とはいえ、「ではどういう条件を満たせば科学なのか?」は問いとして大きすぎるので*3、ひとまず次のように整理しておきます。

    • EM の正当性も、それが問題点を指摘される理由も、一般理論を目指す既存社会学とは別のかたちで主張される《科学であること》をめぐっている。
      • 「それは科学と言えるのか」というよりも、独自に主張された方法論そのものや、《科学であると自称すること》がもつ問題点を引き受けなければならない。



もうひとつ。 私は今回 EM を、《制度を使った精神療法》(PI)と比較しながら論じているのですが、酒井さんは論集『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』をわざわざご購入いただいたのに、数ページで投げてしまわれたとのこと(参照*4。――つまり、EM を「科学である」と主張し、フランス現代思想系の PI を否定されたのですから、ここでは『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』のモチーフが反復されています。 【※ガタリ的な(ポストモダニズムと呼ばれる)思想と、エスノメソドロジーの関係を論じることが焦点になります。私はそれをていねいに考えようとしているのですが、酒井さんにとっては、「EM は科学だが、PI は参照価値がない」で終わりなのだと思います。】


私は20世紀フランス思想を必要としていますが、詩的惑溺のようなあり方に不満があり、とはいえ一方で、「単なる科学」にも耐えられません。 つまりこうです:

    • (1)20世紀のフランス思想には、必要な分節があるように見えるが、集団的意思決定の手続きがない。
    • (2)科学を標榜する言説は、(数学や実験など)集団的意思決定の手続きを備えているように見えるが、必要な分節がそもそもない*5



「概念の濫用」「厳密さを欠く」という、20世紀フランス思想に向けられた批判を、私は「集団的な合意形成の手続きを欠いている」というモチーフで理解しています。 逆にいうと《科学である》というのは、

集団的な意思決定については、方法論レベルでは決着がついている

という主張と受け止めています。 科学であることが確認できれば、個々に主張された命題で間違うことはあっても、もはや手続きで思いわずらう必要はない、あとはひたすら「記述の適切さ」を考えれば良い、というわけです。


酒井さんのご発言では、次の箇所です (強調は上山)

 たとえば、上山さんにはこんな質問をいただいています。

    • エスノメソドロジーは、記述の結果が受け入れられない(価値を認められない)ことについては、どう受け止めるのでしょう。」(id:ueyamakzk:20100119#20100119fn18)

 これに対しては、すぐに、こんな↓感じで回答を与えることができます:
 「分析をやり直すんじゃないですかね。」

 通りすがりにもう一点、「EMの解説」をして済ませるというわけにはいかない事情を書いておくと。
 これには上記に書いたことよりも、もっと「強い」(かつシンプルな)理由が存在します。つまり、エスノメソドロジー研究には、単独で取り出してくることのできる「方法」とか「理論」は存在しない、というのがそれです。 合評会拾遺(その4)-b

ここでは、分析の「結果」がおかしい可能性はあり得ても、
記述事業そのものの性質には、疑いが差し挟まれていません。 記述結果 に不適切さはあり得るが、記述方法 は文句なく正しい(科学である)ので、わざわざ主題化する必要もない――そういうことだと思います。


いっぽう酒井さんが「わからない」とおっしゃる私の発言は、《科学とは別に設定されるべき分節スタイル》をめぐっています。 私は、記述側の分節過程が秩序化されるあり方を、科学とは別に必要としていて、それを「取り組み主体の構成プロセス」云々と、主題化しようとしている。

    • ここで「取り組み主体」は、自覚されないまま生きられている意識や関係の秩序*6に加担している人たちであり、自覚的に《分節/再編》の臨床事業を推進しようとする者は、その一員です。 そして、自覚しないまま秩序を生きていた「人々」にも、同じ《分節/再編》の引き受けが呼びかけられている(単にその場の秩序に順応するのとは別の分節が求められています)。 「科学的真理」の記述が目的なのではなく、やや違うタイプの内発的分節を生きること*7、そしてそれが、抑圧的な関係秩序の侵犯的改編になることが目指されています。 ⇒ 《分節の引き受け/秩序改編》をめぐる合意形成が、喫緊かつ致命的な課題になります(この事業は、単に孤立していては無理です)。 「科学的結果の提示」がないならば、どうやって事業の引き受けや、改編の方針に同意してもらえるのか。 科学であることが目指されないなら、分節過程が自律して独りよがりにならないと、どうして言えるのか。 示された分節の正否を、他のメンバーはどこで検証するのか*8



お返事を連載するにあたって選んだタイトル「被差別ポジションからいかに語るか」にも関係しますが、――私は、人を役割に還元する支援業界の(ひいてはこの社会の)秩序化の作法――人が社会化されるあり方――に強く苛立っており、それを反差別の規範言説で扱うのではなく*9、主観性の分節過程そのもののレベルで問題にしようとしています*10

反復される秩序パターンとしての差別に取り組みつつ、硬直した意識プロセス(主観化の過程)*11を主題化すること。 生きられた秩序を言葉にするプロセスそのものが、避けがたい必然性を帯びた思考の実演であり、「科学的真理」を目指すのとは別の分節過程を生きている――概念運用に厳密さを欠くように見え、合意形成に問題があっても、単に「科学」を標榜して合意形成のアリバイを満たすわけにはいかない理由は*12、ほとんど身体レベルにあるこの主題化のスタイルを手放すことができないからです*13。 このスタイルを失えば、病的なパターンに固着するしかありません。


科学だけでなく、「単にメタ的なポストモダン言説」(東浩紀など)や、「役割に居直り、差別的特権化を要求する当事者言説」(上野千鶴子など)も、それ自体がパターン化した生産秩序を反復するばかりであり、《分節態勢がパターン化すること》そのものを主題化できていません。

分節過程そのもののスタイルを主題化し、《つながりの作法》を分節する労働が、なされていないのです(労働の欠如は、量的にではなく質的にある)。 このレベルを検討しないであれこれ論じても、同じ《人々の方法》にはまり込んで、同じルーチンでの言説が大量生産されるにすぎない。(言葉の生産態勢が、苦痛メカニズムの再生産にしかなっていない。)*14


ですので私がエスノメソドロジー(EM)に向けた興味は、

 旧来の社会学を批判しつつ提案された記述・分析のあり方(手続きや方法論)が、別の分節スタイルをめぐる合意形成にヒントをくれるのではないか。 あるいは EM じたいが、その「別の分節スタイル」になっていないか。

というものでした。 しかし EM の方法論が、単に《科学である》と言えば済むものでしかないなら、むしろ魅力を感じたのは勘違いだったかもしれません(それにしても、なぜハイデガーが…?)。


エスノメソドロジーと《制度を使った精神療法》は、いずれも旧来型の記述事業に反旗を翻しており、かついずれも、語用論*15を批判的に参照しています。

    • 《制度を使った方法論》は、目の前の関係秩序を忘却したままの精神医学や臨床心理学に、方法論レベルで反論している。 カテゴリー談義(DSM-IV)、ベタな物質論(生物学的精神医学)、一般的メタ談義(旧来の精神病理学や臨床心理学)のいずれも、目の前の関係秩序と、みずからの分節過程のスタイルを論じられていない。



エスノメソドロジーについて、酒井さんにご教示いただいた『相互行為秩序と会話分析―「話し手」と「共‐成員性」をめぐる参加の組織化』より、一部を引用してみます(p.283-7、強調は上山)

 従来の社会学理論の中で繰り返されてきた「社会構造」対「行為者」をめぐる論争においては、理論的立場の相違にもかかわらず、社会学的探求とはどのような営みであるかについてのひとつの前提が共有されている。それは、社会学的探求が、社会現象や社会的行為を一般化された理論という装置の構築を通じて「説明する」営みだという了解である。この了解のもとで、「社会構造」や「行為者」という概念には、説明という仕事において解を供給するという決定的任務が課せられている。このとき、「社会構造」という概念には「社会関係の安定した配置」という、「行為者」という概念には「人の諸特性の安定した配置」という、一義的な客観的意味が与えられる必要がある。 (略)
 実証主義社会学者が扱っているのは現実の社会ではなく、社会について自分たちが構築した概念になる。だから、その概念をその特性(一義性・客観性・合理性等々)を忠実に保ったまま現実の中に戻してやると、とても変なことが起こるのである。これがガーフィンケルの期待破棄実験の意味であり、また、サックスが従来の社会学を「奇妙」だという理由である。「奇妙なこと」をやる必要があるのは、従来の社会学が、人々が行為している実際的状況の外部に社会秩序の問題の解を見つけようとしているからである。これに対し、エスノメソドロジー/会話分析が提案したのは、社会秩序の問題に別様にアプローチすることが可能だということである。それは、人々が行為を行っている状況は十全な仕方で「自らを組織化している」と見なすことによってである。 (略)
 エスノメソドロジー/会話分析は、「社会構造」や「行為者」といった概念のなんらかのヴァージョンを研究の不可欠の道具立てとして採用し、それに依拠する代わりに、それらの概念が捉えようとしている社会的現実について別の仕方で系統的に語ることをめざす。会話分析がもうひとつの社会学的探求であるという意味は、これらの概念に依拠することなしに「社会-の中の-行為」について語る営みだということである。たしかに、会話分析においても「ターン構成単位」「隣接ペア」「前置き連鎖」等の固有の用語が用いられる。しかしそれらは、説明するという営みにおいて解を提供するという決定的任務を託されてはいない。それらは、分析を進めるうえでの覚え書きのようなものであり、いつでも破棄されてよい。あえて言葉をひとつ選ぶとするなら、これらの概念は「説明する」ための道具ではなく「解きほぐす」ための道具であるといえよう。

 ベンソンとヒューズ*16によれば、ラザースフェルドが定着させた実証主義的方法論の要は、人間を「一般的諸特性を表示している対象」として扱う点にある。 (略) サックスはこのことを、「一般的であると自称する記述」について次のようにコメントする中で述べている。

    • 《特定の事例についての記述であろうとするいかなる記述も、「その種の事例」についての記述として読まれうる。だから、一般的であると自称している記述によって何が得られるのかは、まったく曖昧である。 〔中略〕 一般的であると自称している記述を書くことで得られる性急な結論は、それによって特定の対象が一般的対象の「一ヴァージョン」となることである。その次には、世界におけるいかなる対象も「不完全」なものとして扱われることになる。たとえば、ふるまいが合理的だと記述されたふるまいに一致しないとき、それは「部分的に非合理的な」ものとして語られることになる。》 (Harvey Sacks "Sociological Description," in Berkeley Journal of Sociology 8(1963),14



記述事業に課せられた、パターン化した任務(人々の方法)が、精神と人間関係を秩序化するありかた。 私は、「一般的であると自称する」記述事業が固定され正当化される関係秩序に、強く怒っています。 要するに、「お前の事業ナルシシズムを押しつけるな!」
酒井さんは、「学問の問題ではない」とおっしゃいましたが(参照)、私は、対人秩序や問題意識の秩序化に影響を及ぼす学問については、「学問のあり方が悪い」と言うべきだと思います(学問を名乗る言説それ自体の恣意性と政治性)。 間違った知のあり方を踏襲して勉強を続けると、どんどん状態が悪化する。


仮にある学問事業には内的一貫性が必要だとしても(数学などはその典型)、それが埋め込まれるアカデミズムという場所の《人々の方法》は、そこに生きる人々自身によって問題化される必要がありませんか。――ありていに言って私は、独特の当事者的自己検証を準備させてくれる学問言説を探しているわけです。 《人々の方法》と言いつつ、自分の巻き込まれている場所を検証しないようでは、学問言説じたいが問題構造を隠蔽するアリバイ工作になります*17


以下は、ガタリが自らの《機械》概念を、政治的-臨床的分節過程を主題化したものとして、既存学問に対抗させつつ描いている(と私が理解している)箇所です。 こちらから英訳版を孫引き(強調は引用者)。ちなみに引用元のひとつである『Chaosmosis: An Ethico-Aesthetic Paradigm』は、『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』p.222-225 で 「これこそ、われわれがこれまで見た中で最も華麗な科学、疑似科学、哲学の専門用語の混合物である」と皮肉たっぷりに引用されている当の書物です(箇所は違いますが)。】

 Rather than having a being as a common trait which would inhabit the whole of machinic, social, human and cosmic beings, we have, instead, a machine that develops universes of reference—ontological heterogeneous universes, which are marked by historic turning points, a factor of irreversibility and singularity 非可逆性と特異性. (Guattari, "On Machines", p. 9).

 The autopoietic node in the machine 機械のオートポイエティックな結節点 is what separates and differentiates it from structure and gives it value.   Structure implies feedback loops 構造はフィードバック・ループを含意する, it puts into play a concept of totalisation that it itself masters それ自体が体得する全体化の概念.  It is occupied by inputs and outputs 入力と出力で占領される whose purpose is to make the structure function according to a principle of eternal return 永遠の反復という原則に従って、構造を作動させることが目的.  It is haunted by a desire for eternity. それは永遠に関する欲望に取り憑かれている。  The machine, on the contrary, is shaped by a desire for abolition 撤廃.  Its emergence is doubled with breakdown, catastrophe —the menace of death その発生(脱出)は、不具合や破滅、つまり死の脅威によって倍化される.  It possesses a supplement それには補足がある: a dimension of alterity which it develops in different forms. それが異なったフォームで開発する他性の次元  This alterity differentiates it from structure, which is based on a principle of homeomorphism.  The difference supplied by machinic autopoiesis is based on disequilibrium 不均衡, the prospection of virtual 潜在的な Universes far from equilibrium 均衡. (Felix Guattari, ”Chaosmosis: an ethico-aesthetic paradigm”, 37

オートポイエーシス」などの概念が “濫用されている” と思うのですが、
ここで既存概念を使ってなんとか説明しようとされているのが、

    • 「永遠の真理」を目指すのとは別の分節過程の、内発的生成であり、
    • ルーチン化した秩序に対する「ターニングポイント」という特質をもち、非可逆的・特異的であること、*18
    • 特異な当事者的分節の、事件としての内発的生成の話をしているのであって、むしろ背景的秩序からいかに身を引き剥がして分節の一貫性に殉じることができるかが問題になっていること  が伝わらないで、

「科学と同じ記述事業をしているはずなのに、馬鹿げた概念運用をしている」としてしまうと、そもそも別の記述事業の必要を訴えている話だということが、まったく見えなくなってしまいます。 そこまで踏まえたうえで私は、

 この事業には、分節プロセスを中心化し、内発的な生成を解放する自由はあるが、それがお互いに直面してしまった場合、集団的意思決定はどうするのか。 数式や実験で検証することもできないし、身近な集団では、投票のような合意形成の手続きもない。

と問うているわけです。(スタイルは科学と違うものの、これも最悪の形で事業ナルシシズムに巻き込んでいるのではないのか。)

    • 【私的なメモ】: 科学では、記述過程が、同時に合意形成の手続きを踏んでいる。 しかし PI が必要とする分節過程では、《己れの内的必然で厳密な分節が生成すること》と、集団的な意思決定の手続きは、別々に考えなければならない。 集団的な合意とは、むしろ《新たな生成》を禁じるところで成り立つのではないか?


必要な分節を抑圧する記述ではなく、《分節の必要》を解放するべき

 ほかのエントリ(id:ueyamakzk:20100125 など)も勘案しつつ考えるに、これは、「ひきこもり」というカテゴリーで語られる人々に(かつて?)属し、そのカテゴリーを自分に対しても使用する(or していた?)ひとでもある上山さんが、「ひきこもりについて語る人々」との間で取り結んできた関係と経験が複雑に反響した表現であろうかとは想像されます。それだけに/ということは、それらを分節化していく作業のみが、こうした主張を「わけのわかる」ものにしていくのだろう、とも思われるところです。 (酒井さん、「合評会拾遺(その4)-c」)

たしかに、私が既存の言説状況に苛立っている理由には、
社会参加に取り組む私が巻き込まれざるを得ない、耐え難い秩序のあり方が影響しています。
私が必要とする分節の具体例については、次で取り上げてみます。


(5/6)補遺につづく】


*1:【原注】: 真/偽の値を割り振られる対象。

*2:【原注】: どのような 道hodos に 沿ってmeta 真理へと到達すべきか の検討。

*3:酒井さんは、《科学/非科学》の線引きにも強い意識を持っておられると思います。 ですので、なぜ EM をわざわざ「科学」と主張されるかに興味があります。

*4:本に引用されている筒井淳也氏もコメントされています。

*5:私は EM には必要な分節があるかもしれないと思いつつ、合意形成の手続きがどうなっているかも、「科学」と名乗る理由もよく分からずにいます。(酒井さんは、「科学である」と名乗ることにおいて、合意形成の手続き論をクリアされたことになっているのだと思います。)

*6:《自覚されないまま生きられている社会的秩序》を、永遠の秩序とは別のかたちで、《目の前の秩序》として主題化しているのが、EM と PI の共通点だと思います。 PI の場合は、その無自覚的な秩序が、主観性の構成過程と切り離せずに主題化されます。

*7:「やや違う」とはどういうことか。また、その分節の必要を内発的に体験できない人にとって、この要請はどのような意味でも必然性がないのではないか。――そうした質問に、今の私はうまく答えられません。

*8:ソーカル事件は、合意手続きの不整備を端的に露呈させている。

*9:主観的には反差別を言いながら、秩序としては身分制そのものであるというのが支援周辺に見られる関係秩序(つながりの作法)です。 主観的意図として「反差別である」ことが、差別堅持の条件にすらなっている。

*10:芹沢一也狂気と犯罪 (講談社+α新書)』は、歓待をめぐる規範的主題化にとどまっていますが、《制度を使った精神療法》は、病いのプロセスを内在的に扱った、臨床論にもなっています。精神医学的な臨床論が、政治的主題化と切っても切れない。

*11:主観化の過程 procès de subjectivationガタリの表現です。 ▼「主観化のプロセスが、硬直した同じパターンを反復する」のは、ひきこもりの落ち込んでいる問題構造でもあります。 真剣に思いつめれば思いつめるほど、ドツボにハマってゆく。 ⇒ 「真剣に考えるかどうか」が問題なのではなく、その思考がはまり込んでいる硬直したパターンが問題なのです。

*12:データ処理の誤りや、明晰化できる部分で曖昧な遊びをしている(必然性がないのに曖昧になっている)部分は、できるかぎり “誤りを修正し” 分かりやすくするべきなのは当たり前です。

*13:現在の役割ポジションや「逸脱しているかどうか」よりも、そんなことを主題化する必然性の核を持っているかどうかが、立場の分かれ目かもしれないと感じています。

*14:「メタとオブジェクトの解離」という妙な表現は、気付かれないまま再生産される苦痛のメカニズムを説明しようとしたものです(気付かれていない苦痛の機序なので「解離」としましたが、それ以上の意味はありません)。 私の斎藤環さんへの反論の焦点も、ここにあります。

*15:エスノメソドロジーが語用論を批判的に参照しているというご指摘(参照)が、大きなヒントになりました。

*16:Douglas Benson and John A. Hughes, 「Method: evidence and inference」(『Ethnomethodology and the Human Sciences』掲載,1991)

*17:エスノメソドロジーという事業が本質的に、そういう自己検証ができない構造を持っているのか、それとも、関係者の勇気の問題なのか。

*18:リンク先冒頭には、「一般文法学として通用するふりをしている言語学は、いまだ己れのマルクスを見出していない」(大意)というガタリからの引用があります。