(5/6) 補遺

(5/6)のつづき】


ラボルド精神病院の創設者であり、《制度を使った精神療法》でガタリの先輩にあたるジャン・ウリ*1のエピソードです:

 クラブ活動を盛んにしたり、役割分担表(参照)の運営維持に協力するウリを横目にして、ラカンはウリに、お前は本当にあんなことをすることがなにかの役に立つと思っているのか、と問いかけたという。 もちろんです、とそれに対してウリは答えた。 (『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.165)

ウリのやっていることは、ラカンからは全く意味のないことに見えていた。
いっぽうウリは、ラカンの影響下から出発して、存命中の今でもラカンの仕事を参照しています。そして、精神分析の立場に立つ(しかもわけの分からないことを言う)ラカンは、多くの論者にとって何の価値もありません*2


ひとつの立場からはたいへん重要な議論が、別の立場から見ると、意味がないどころか、何を論じているのかすら分からない。――ここで、ナイーブさについて戒めが必要です。 私がどうしても必要だと思う論点化は、「ていねいに説明したから理解される」というものではないかもしれない。


酒井さん(id:contractio)からは、次のような苦言を頂きました(参照)。

 もうちょっと、わかってることとわかってないこととの区別をつけながら書けませんかね。

以下、気をつけます。 ・・・・と同時に、《慎重さ》は、一定の熟慮フォーマットを形成した後の態度でもあるという認識を、共有できませんでしょうか。


ある慎重さは、本当に考えなければならないことを見ずに済ますための防衛機制でもあり得ます*3。 私は、正当化の努力がひとつのフォーマットに監禁されるあり方そのものと戦わねばならないのですが*4、この要請そのものが、別の立場からは《不誠実さ》に見える。


「わかってることとわかってないこと」について、私は次のいずれをも問い直しています。

    • 「すでに○○は分かっている」という同意の共同体
    • 「××は分からない」と言う場合にすら維持されている、《問題意識のフォーマット》を共有するコミュニティ

社会参加をめぐる考察では、この両者を洗い直すことが絶対に必要です。
そして、この言い分まで「決めつけだ」と言われたら、私が不可欠と考える問題意識じたいが、窒息してしまいます。

    • 私は、《わかってること/わからないこと》を記しつつ、《わかる/わからない》が生じるフォーマットを問い直す作業を同時に進めようとしているので、ややこしい議論になっています。 ▼以前の私は、素朴に「教えてください」という態度だったのですが、それが学問意識の帝国主義に簡単に蹂躙される体験もして、《わかる/わからない》の言い方がお互いにどういうフォーマットに乗ろうとしているかに慎重になろうとしています。
    • たとえば DSM-IV に則って「慎重に」なろうとしている精神科医は、治療論に政治的分節がはいり込むことを、嫌うことがあります(参照)。 彼らが頻繁に用いる「エビデンス」という言葉は、まさに《わかってること/わからないこと》を区切るもので、「○○という薬は効くかどうか」が、統計的なデータと共に示される。 それは “科学的な慎重さ” に見えますが、そもそも現行の医療目線に疑いを持っていない時点で、その「慎重さ」はまがい物です。 DSM や薬物を絶対的な参照フレームにするなら、その議論には必要な問題意識がありません(議論フレームじたいが苦痛の温床であり精神科医をふくむ多くの関係者が激怒しています)。――ところが DSM の信奉者からすれば、そのように考えることは「科学的慎重さから逃げている」ことになる。
    • 精神科医が診断マニュアルと向精神薬に詳しくなれば、行政的には文句のつかない「専門性」でしょうし、勉強したその手の知識で “専門性” を誇示する幼稚な社会学者もいます。 そこではエビデンスで《わかってること/わからないこと》を区切るふるまいが、不当な暴力のアリバイ工作になっている*5。――参加(参与)をめぐる議論では、何をすれば本当に慎重さを示したことになるのか、その順応主義そのものが問われています。 どういうフォーマットで慎重さが設計されるべきか、それをこそ論じなければならないのですが、ルーチンを生きる人たち(すでにある正当化フォーマットに嗜癖する人たち)には、こういう議論そのものが不当に見えるらしく、多くは激怒を始めます。 単純ミスのレベルではなく、「議論が依拠する考え方の制度そのものがおかしい」と指摘されることに、多くの人は同意しません*6



「○○学には殉じているらしいが、それによって考えるべきことを隠蔽する議論」に私は怒っていて、これは制度的な調査倫理とすら相容れない怒りかもしれません。
たとえば、社会学をかこつ人が水面下で行なっている発言は、お行儀のよい知的業績からは見えてきません。 むしろ日常の言動をこっそり録画して、それを素材にすることを、エスノメソドロジー(EM)は敢行できるでしょうか。 《ディシプリン》を逃げ道にせずに、自分や同僚を素材にできるかどうか。(「EM ならできるかもしれない」というのが私の興味だったのですが…)


医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』では、
次の発言がそういう問題意識にあたります(強調は引用者)

上山: 今回の本で論考を寄せておられる先生方は、どういうスタイルで参加なさっているのかが、とても気になっています。 いつもと同じスタイルで、追加的に一つの業績を付け加えるだけなら、わざわざ制度論というフレームでなくてもいいじゃないですか。 (略) 制度論の話は、読むのがものすごくしんどい。そのしんどさが、単に知的に難しいのとは、ちょっと違うんですよ。 (略)
 今日私はどうしてこの座談会に入れていただいているかと言うと、学者だからとか、患者だからということではなくて、「自分の足元について考えている」という、その一点でしょう。 (略)
 僕は、大学の舞台裏の話を聞かせられると、けっこうゾーッとすることが多くて。 パブリックに出てくる出版物には、知的業績の部分しか出てきませんよね。 でも本当に考えないといけないのは、その人がどんな手続きでそこにいて、どんなトラブルを経験されているのか、だと思うんです。 それは、単に素人でいいということでもない。 (p.229-30)

苦痛緩和の努力である↑この問い直しを、
エスノメソドロジーは許してくださるでしょうか。


私は勉強を続けながら、体験を素材化する活動そのものを提案しているのですが*7それがエスノメソドロジーとどう重なり、どう重ならないかが知りたいのです。 たとえば、いま酒井さんとのやり取りがうまくいかないとして、それは私のルール違反という以外に、記述しようがないでしょうか。 (もしそうであるなら、問題意識が閉じてしまって、私が EM に向けた興味そのものが壊れてしまいます。)


私が次のように記したのは、「必要不可欠の問題意識が見当たらない」というメモでした。

 ハーヴェイ・サックスの「ホットロッダー」(『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』掲載)では、本人たちが自分をカテゴライズすることを「自己執行(self-enforcement)」と呼び、「革命的カテゴリー」というのだが、そこでは《カテゴリーで名指すという繋がり方》そのものの問題は扱われない。

これに対して酒井さんからは、
「なんでこんなことが言えるんだ」という趣旨のコメントを頂いたのですが(参照)、サックスのこの論文には、私が求めている、《カテゴリーで集団を維持するという作法そのものが苦痛の温床である》という問題意識は、見あたりません。(EM 的な差別研究*8もぱらぱらしてみたのですが、私が必要としている問題意識があるようには思えませんでした。)


――このエントリーが、少しでも意味のある補遺になっていればうれしいのですが・・・。


【「(5/6)別補遺 拒絶される当事者性」につづく】


*1:ガタリは制度上は無資格ですが、ウリは医師免許をもつ精神科医です

*2:チョムスキーラカンのことを「amusing and perfectly self-conscious charlatan」と形容しています(参照)。 “charlatan” は、「(専門知識を持っているように見せかける)山師」「はったり屋」「偽医者」などの意。

*3:そのまま私自身にも突き付けられる問いです。

*4:反復される主観性のパターンが、みずからにとっての搾取主体になり、苦痛をいや増すからです。 同じパターンで反復される《主観性の硬直》が、私の考えたがっている核心です。

*5:「ちゃんと示すべき慎重さを示している」というわけです。

*6:私はこのことにこそ、ガーフィンケルのいう「文化的な判断力喪失者(judgemental dope)」という言葉を使いたくなっています。 もとの文脈からすれば「概念の濫用」でしょうか。 しかし、むしろ「どう濫用なのか」を問い詰め、逆に「それにもかかわらずなぜこの言葉に魅力を感じたのか」を考えることが、有意義と感じるのですが、こういう問い方はお許しいただけませんか。

*7:自分個人に対してというより、問題意識のスタイルそのものに居場所を与えようとしている

*8:批判的エスノメソドロジーの語り―差別の日常を読み解く』、『排除と差別のエスノメソドロジー―「いま‐ここ」の権力作用を解読する』の二冊