お返事を頂きました(参照)。
私がまず思いついたのは、
- 「場所」 → 社会学者のいう「社会的秩序」(or その下位概念としての「社会的システム」)
- 「取り組み〔主体〕」 → (秩序への)「参与〔者〕」
というゆるい対応関係でした。 (略)
「場所」と「関係性が埋め込まれた環境」とが同じものを指すのであれば、この対応づけはなかなかよさそうに見えたのですが....
しかし、この対応付けは、このあたりで挫折します:状況に埋め込まれた秩序が苦痛の形をしているなら、それを変えざるを得ません。 その秩序の生態は、「人々の Ethno- 」方法というより、自分を含んで生きられる《場所の Ort- 》方法です。 【引用3】
というのは、「自分を含んで生きられる社会的秩序(〜社会的システム)」を作り上げるやり方が、「人々の方法」と呼ばれているものなので。
たとえば《制度を使った精神療法(PI)》では、
内面が秩序化される方針 と、環境が秩序化される方針 との関係が、リアルタイムに主題化されます*1。 それを引き受けた側は、「結果的な記述が正しいかどうか」だけでなく、自分を秩序化する方針も変えざるを得ないため、自分の側にも生じる《臨床上の影響》を検証せざるを得ません(かえって苦しくなるかもしれない)。
これはエスノメソドロジーと違う焦点だと思いますが、秩序化に向けた問題意識をリアルタイムに先鋭化させることは、繊細な配慮を可能にすると同時に、合意形成の手続きをわからなくします。 また、こういう繊細さそのものが陥る大局的なフォーマットにも言及しにくくなる。
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- 順応問題をリアルタイムに先鋭化させることは、精神的な失調を抱えた患者さんには必要ですが、その配慮だけでは、(臨床現場においてすら)集団的な支持は得られません。 集団的な支持がなければ、細やかな取り組みも難しくなります*2。 場面に応じた配慮の使い分けが必要ですが、現状では、あまりにも「リアルタイムの配慮」が欠けている――というより、方法論として気付かれていません。
*1:人間は、お互いの実存傾向がお互いの《環境》になります。 その意味で全員が、環境が秩序化されるときの《当事者》です。
*2:『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.234〜,239〜 で言及したことです。