関係が維持できるという奇跡

 「酒井さん(あるいはエスノメソドロジー)は」とか、「すでに持続的な秩序参加に成功しておられる酒井さんは」とか、「「論じている側の苦痛」が感じられず」などなどと云々しうるほどには、上山さんは、酒井(やエスノメソドロジー)について知らんでしょうに と思いはするわけです。 それを云々しうるような「個人情報」を 私は開示してないので、そんなもの簡単には語り得ないはずなんですが。 (「a.困惑の理由」)

私のエントリー(参照)では、「細かい個人事情を詮索して書いている」ように読めたと思います。 失礼致しました。
私は、参与を維持しておられる、その公開されたあり方だけを話題にしたのでした。私は、関係を維持することにこそ、最悪の困難を感じています。(だからこそ、信頼関係の作法を当然視する論じ方に耐えられません。) ここでの焦点は、「つらい体験をされているかどうか」ではなく、《参与状態を維持する過程》にあります。


たとえば「雑談を交わす関係を維持する」というのは、社会参加を難しいと感じる多くの人にとって、困難な課題です。うまくやろうと意識すると、意識すればするほど出来なくなる。かといって(現にできないのだから)意識しないわけにもいかない――ここで途方に暮れます。 ところができている皆さんは、さほど意識せず(というより意識しないから)参与を維持できており、そこに問題意識が滞留していること自体が理解できない。だからそれを論じる必要がなく、ただ参与事業を維持すればよい。
あるいはたとえば、対象をモノ化する言説に何の苦痛も感じないなら、方法論を考え直そうとすること自体が動機づけを失います――が、その人は、首尾よく参与を続けられるでしょう。


私はこの、「意識しすぎてできなくなる」と、「意識しないからできる」の間に立って、
具体的な処方箋を考えようとしています。

 「整然と並んだ机を見るだけで冷や汗が出てくる」ためには、「机が整然と並んでいる」ことが「見てわかる」ようになっていることが必要です。そのように「見てわかる」ようになっていることを指して「秩序がある」という言葉を私は用いました。 (「論点1について:社会的秩序」)

たとえば猫なら、私が「見てわかる」ようには苦しまない。その苦痛まで含めて、《秩序》として成立している――ということでしょうか。
しかしこの指摘だけでは、《参与の維持できなさ》が主題化されていません。(とはいえ、いつの間にか秩序があることを確認することは、私にとっても必要です。)


逸脱者であっても、内面は嗜癖的な順応主義者であり得ます*1。 また、挫折のないキャリアを積んでいても、話してみると《順応》を先鋭的に問うておられることがある。 本当に照準するべき境界線は、「つらい体験をしているかどうか」ではなくて、その人の努力と参与の関係です(ベタな順応主義なのか、それともそうではないスタイルなのか)。
たとえば、逸脱経験の結果得られたつながりは、また新しい秩序として、反復される関係パターンを押しつけてきます。私はその参与までふくめて考えたいのです。 ひきこもりでは、《秩序の固定的な維持》*2それ自体が、苦痛や暴力の温床になっています。

    • 意識の従わざるを得ない《秩序化の方針》を問い直さずにすむのは、順応的な参与が実現しているということです。 ▼たとえば読書行為を維持するには、《読書》という秩序を維持せねばなりません。そこですぐに「俺なにやってんだ?」と意識し直してしまうと、表面的には怠惰でしかない。すると、努力を持続することが、TVゲームに没頭するような嗜癖のかたちしかあり得ないように思えてくる。――私は、単なるシラケでも、単なる嗜癖でもないような、制度順応そのものを話題にすることで参与が続くようなあり方ができないか、模索しています。



当事者論を組み変えるために 2につづく】


*1:ひきこもる人がまさにそれであり、状態像として引きこもっていなくとも、硬直した順応主義が自他を苦しめる温床となります。 彼らは、「自分は、順応している!」というナルシシズムと、「逸脱している!」という自己卑下――じつは同じことの両面――を、ひたすら往復しています。

*2:学問的考察や雑談の秩序化についても