《取り組みかた》が、苦痛機序になっている

理論についても現場についても、

 ある苦痛を和らげようとして、かえって苦しみを強めてしまう

ことがあります。 アプローチの仕方が、扱うべき問題を隠してしまう。


森直人氏「社会的排除と教育社会学」より:

社会的排除」という概念が突破口になるわけではない.
そこはくれぐれも勘違いしてはならない.「社会的排除」概念によって研究上の新しいインスピレーションが得られるとしても,そこで得られるもののほとんどは,これまでの教育社会学が「階層」という概念で捉えてきたテーマに尽きる,と私は思う.
むしろ,「階層」という概念で捉えるべき問題を,わざわざ「社会的排除」という概念で把握することによって問題の所在が不明瞭になる,と言ってしまってもよい(いったいなんのための「文化資本」や「社会関係資本」という概念の考案だったのか!).
「貧困」という概念で捉えるべき問題を,わざわざ「社会的排除」という概念で把握することが問題の所在を不明瞭にする“場合もある”というのと相同の難点だ.
それでもなお,教育研究(とりわけ教育社会学)にとっては「社会的排除」概念がもたらす恩恵があるのではないかと(ぼんやり)私が思うのは,いくつかこれまでに検討が尽くされてはいない具体的な研究テーマの所在が示唆されるからだ.



ひきこもりについては、(1)「研究テーマになるかどうか」と同時に、

    • (2)集団的な意思決定に有益か*1
    • (3)実際に悩む人の主観性にどう影響するか

という配慮が必須です。
(2)まではよく論じられますが、どうしても指摘する必要があるのは、(3)が話題にすらなっていないこと。


研究事業では、対象との関係でその方針が選択される必然性があると思います。 問題は、主観性の問題で悩む本人も、その方法論で自分の問題を考えようとしてしまうこと*2

物質科学なら、結論の正しさだけに配慮すれば事足ります。 しかし精神療法周辺では、医師や学者の姿勢がクライアントの主観性に影響してしまう。
学問ディシプリンに依拠して相手をモノ扱いする議論は、悩む本人の委縮を増悪(ぞうあく)させてしまうのですが、学者や医師の問題意識は制度化されているために、まちがったまま身分を保証されてしまう。 難しそうな「専門的議論」それ自体が苦痛に加担していて、しかもその共犯関係を指摘されることを拒絶しているのです。
視線の政治性それ自体が臨床上の課題なのですが、これは今のところ、精神医学の教科書にも書かれていません。



*1:政策レベルと、身近な関係性では、事情が変わる

*2:その方法論によって、悩んでいる自分の正当性/正統性を根拠づけようとする。