批評と臨床の場所――生産過程と流通過程

p.453-2、佐々木敦東浩紀のやり取りより(強調は引用者)

佐々木敦 東さんは、最近はトークやインタビュー、エッセイ的なものでも、直接会うことの重要性みたいなものを繰り返し言ってますよね。 (略) でも、批評っていうのは、会ってるだけ、喋っているだけではないですよね。 (略) 批評は文を書くだけじゃない、それにまつわるさまざまな行為とか、パフォーマンスも込みで批評なんだという話をしていましたが、実際のテクストとしての批評はやっぱり残るわけです。 (略) 東さんは、これは文芸にかぎらないと思うんですけど、批評家としては、いわゆる趣味嗜好に還元される価値判断みたいなことを、極力表明しない*1、それは問わないっていう方向にいってると思うんですね。 でもそれをしないのは、本当は価値判断のレベルでも、相対的に自分のほうが優れているんだっていう確信があるから出来るわけですよ。 つまり、そこの部分で、ある意味では、古典的な批評観っていうものが、ちゃんと担保されていると思うわけ。 ところが、その担保されている部分は、東浩紀東浩紀だからなわけであって、これから出てくるひとたちは、その外側の、要するにパフォーマティヴな部分だけが、批評家のサヴァイヴの手法として受け継がれていき、肥大化しつつ空転していってしまう可能性っていうのが、ないとはいえないっていう部分があると思うんですよね。
東浩紀 説明すると極めて難しくなるんですが、いま佐々木さんがいわれたことには驚くべきことにちゃんと理論武装がある(笑)。 『リアルのゆくえ』でいっていることですが、価値判断というものがサロン的コミュニケーションを通じて公共的に形成されていくプロセスは、存在しないと思うんですよ、ネット社会においては。 したがって、価値判断について話し合う必要がない。 話したって、どうせお互いに意見は合わないんだから。
 だから、価値判断を高めるためには、ぜんぜん飲み会とか要らないの。 むしろあれはガソリン投入とか、燃料投下のためにある(笑)。 (略)
 コミュニケーションが現前的に行われるべきかというのは、いうまでもなくデリダ以来の問題で、ぼくの場合も20年ぐらい前から考えつづけていることです。 もともと、サロンから出発しているのが哲学や批評の中心なんだという考え方のひとと、引きこもって書いているやつが結局勝つんだよというひと、サロン派とひきこもり派に、だいたい大きく分かれるわけですよね、哲学は。 デリダの問題は、「おれは引きこもりだよ」ってのに近い。 「エクリチュール」ってのは、「引きこもってもオッケー」ってことですよ、一言でいうと(笑)。



直接会うことが重要なのは、そこで生きられた言葉や関係が、生理感覚まで含めた「マテリアル=素材」*2を生じ、事後的な分析過程をもたらすからだ。 会っている間は気づかなかった事情が、あとになって透けて見えることがある。 そのていねいな分節は内発的に必要とされ、すさまじいリアリティをもって立ち上がる。 メタ的内容の空中戦ではなく、このマテリアルへの内在的分節過程(consistency)にこそ、批評と臨床がある*3
文学に興味がないかぎり、批評など放置してよいように見える。 しかしそこで表明される方法論は、人の社会参加を支援する方法論にリンクしている*4。 私たちは、「自分という生産物」を売ろうとしている生産者だが*5、「結果物=商品」の成功、つまり「流通過程でうまくやれるか」のみを問題にする批評=支援では、生産者の取り組みは、事後的成功から監視されてしまう。 生産過程が、ナルシシズムのみを要求されて委縮する*6


批評=臨床上の焦点は生産過程の委縮なのに、ここでの佐々木と東の議論は、生産過程を不問にし、流通過程のみを問題にしている。 分析や試行錯誤は流通の場面のみにあり、生産過程は放置される。 すると、それを放置している彼ら自身の生産過程も不問にされる。 「やればできるが、あえてやらない」人は、「やるとすればどうするか」「すでにどうやってしまっているか」を分析しない

流動性にくたびれた生活では、「ひきこもれば判断が変わる、面会は何も変えない」という認識は、いったんは必要だ。 しかし、trauma になるほど硬直して抜け出せないひきこもりから見れば、これは生産過程を固定させ、ひきこもるメカニズムを追認することでしかない。 ひきこもりでは、むしろ価値判断の硬直こそが問題になっている。 ▼ここには、私が知識人や臨床家の言説に(それに追従する人たちに)怒りをもつ理由が凝縮されている。 彼らは、固定された生産態勢と生産物を持ち寄り、あとはサロン的に自分たちを褒め合うか、過激にすれ違うだけで、「目の前の関係性を事後的に分析し、お互いの生産態勢そのものを検証し合う」ことをしない*7。 ひきこもれば、確立された生産態勢を再起動するだけ。

東浩紀 デリダの問題は、「おれは引きこもりだよ」ってのに近い。 「エクリチュール」ってのは、「引きこもってもオッケー」ってことですよ、一言でいうと(笑)。



エクリチュール」を、情報断片とその伝達の問題系だと考えると、ここでの東氏は、生産過程を不問にし、あとは情報断片をどうするかを考えればよい、という話になっている。 20代の東氏はデリダ研究への沈潜においてデリダの生産過程そのものを問題にし、みずからの揺らぎの中で驚くべき生産過程を実現して見せたのだが*8、そこから「郵便」のモチーフを引き出したことで、あとは自分自身の労働過程が《伝達過程》に特化されてしまっている。 生産態勢を固定し、とにかく「伝わる」ことに心を砕くこと(パフォーマティヴ)。

新しい書き手たちについては、労働過程を不問にし、「とにかく数を増やす」ことが目指されている(『早稲田文学 2号』p.455)。 選んでいるみずからの生産過程を問い直す作業をもたず、流通過程に心労を特化させること自体がアリバイになっているが故に、みずからが帯びてしまう党派性には無頓着になっている*9
東氏がデリダの「エクリチュール」に対比させたジジェクらの「シニフィアン」は、共時的体系として取り上げられるだけで、それが織りなされる分節=生産過程は論じられない。ヘーゲリアンを自称するジジェクでは、つねにすでに見出される最終的な構造を描き出すことがモチーフで、悩む人間が内側から取り組む生産過程に付き合うという(岡崎乾二郎的な)作業はない。 生産プログラムまで織り込んだその結果物を「否定神学」と批判する東のデリダ論は、ジジェク的な静止構造に対してのみ反論しており、ガタリらが臨床的観点から取り組んだ生産過程のモチーフは*10、すっかり欠落している。


この社会に生きる人たちの、生産態勢の硬直(カルト化)こそが苦痛の条件なのだから、そこを組み直さなければ話にならない。 かといってそれは、東氏が言うような、練り直すかに見えて実はすでに生きている生産態勢を強化することでしかないような熟考でもない。 生きられた関係を、事後的に分節すること、そこで生産態勢をリアルタイムに組み替えていくこと。 何かに到達してナルシシズムに浸る*11ためではなくて、分節と組み直しをくり返すことが、生きる過程そのものだ。 「結果物への嗜癖」と「流通過程の工夫」しかない昨今の知的言説は、ひたすら言説を流通させつつ、生産態勢はひきこもった(硬直した)ままになっている。



*1:【上山注】: ここでは、批評家の仕事が「結果物への趣味判断」に還元されている。そして東氏がそれをせずにいられるのは、「実は自分のほうがうまくやれるからだ」と。――批評家=臨床家の仕事から、生産過程への取り組みが消え失せ、「結果物への判断」だけになり、かつそれを行なう自らの生産過程=判断態勢への批評的介入や組みなおしは放棄されている。 ▼たとえば同時代が「○○の時代」と名指されたとき、その「○○」の部分は吟味されるが、そもそも「○○の時代」と名付けて悦に入るバカバカしさは指摘されない。 「○○」の出来ぐあいは、それをもちだして語る者のナルシシズムを担保するが、それ自体は処方箋ではない。(むしろ、結果物に固執する態勢こそが害悪だ。)

*2:分節過程を駆動する、身体的ななにごとか

*3:分析においては、マテリアルに付き合う「過程」に臨床がある。 ▼斎藤環の標榜する事後性は、物や本人の「結果」だけを見て、つくる過程をまったく見ない。 斎藤自身の生産態勢がメタ的に固定されており、彼に観察された「作り手=患者」は置き去りになる。

*4:斎藤環への批判(参照1)(参照2)が、美術批評と臨床論を同時に扱うことになるのはそのためだ。 ▼支援される側への批評だけでなく、「支援者への批評」が必要だ。

*5:宮台真司などのナンパ指南では、「商品としての成功」=「ナルシシズムの成就」が目指されている。 彼の言説は、つねに「結果物のナルシシズム」に支配されている。

*6:ひきこもっている人は、「成功した社会復帰」を夢想することでかえって委縮する。

*7:お互いの生産過程に介入しないサロン的な人間関係(『早稲田文学 2号』p.460)は、なれ合いとすれ違いのサークルに堕してしまう。 これでは、批評的強度を目指す人ほど孤立したがり、いずれにせよ生産過程は硬直する。 ▼作品活動と人間関係をめぐるこの問題意識は、関西の版画集団「MAXI GRAPHICA」で問われたことにそのまま重なる(参照)。

*8:存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』。 この論考は、雑誌に連載されていた文面のほうがはるかに内在的な強度を保っている。書籍化にあたり、事後的にすべてを切りそろえて整理してしまった内容は、「結果物」としてはまとまっていても、生産過程そのものに生じていた分析的なヤバさを失っているように見えた。 それは私にとって、「入門しにくい」ことを意味する。整形され「完成された」ものには、転移が生じにくい。 「まだやり残した何かが残っている」ものこそが、読者側の制作過程をつき動かす(ジャン・ウリの指摘)。 ▼同書のあとがきでは、今後は「もっと機械的・形式的に仕事をする」とある(大意)。 連載終了後の整形は、直接には書籍化や論文作法の問題だったかもしれないが、今から見ると、東氏自身が、論考の生産過程に生じた揺らぎの痕跡を意図的に削除した「宣言」にも見える。 私はむしろ、東氏自身の生産過程に生じていた「境界線上の格闘」にこそ、臨床上の重要なモチーフを見ている。

*9:主張内容そのものをめぐる論争には「興味がない」というのだが(『早稲田文学 2号』p.451)、それは当然、みずからが引く内外の線引きを見えなくさせる。 ここでは、判断の事情は生産過程として固定される。

*10:ガタリの主題は、浅田彰が解説したような「スキゾの全面肯定」ではなく、分析プロセスの中心化にあるのだという理解は、三脇康生の教示による。 cf.『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.238

*11:既存の商品や批評は、「結果物としての自分」のナルシシズムばかり問題にしている。