社会生活のカルト性

ひきこもっていた人が社会復帰するときに、カルト的に硬直した帰依が見られることがある*1。 支援者に、誰かの思想に、アカデミズムに、etc....。 そこで考察が必要なのは、「そうか、ひきこもってた奴はカルト化するのか」ではなくて、論じているあなた自身がどうやって自分を支えているか、だ。
宮台真司の議論は、宗教を建立する動きに見える*2。 それは彼だけがおかしいのではなくて、この社会に順応している人の自己管理には、「固定された帰依」の要因が必ずある。 ルジャンドルなら「ドグマ」という語であつかう話だ(参照)。


そう論じたからと言って、論じている自分がカルト性から抜け出たと思うことは、それ自体がドグマになっている。 論じるとは、「今の自分はドグマティックでしかない」という気づきの遂行でもある。 静止画像として建立された教説は、そのつどドグマ化する。 各人が、取り組みなおす過程をそのつど立ち上げなければ。(知識人向けの本を読む人は、多くの場合、自分の愛読する教説をドグマ化することしかしていない。読んだあとに、「自分の従っているディシプリン」を自分で分節し始める人がどの程度いるのか。)


分析的な《当事者化》*3を呼びかける私は、カルト化した自己管理で成り立っているこの社会に、別の可能性を導入しようとしている。 つまり、新たに帰依すべきメタ教説を建立するのではなく*4、問い直しの活動そのものを措定し、実演すること。 誰かの発言を引用しても、その引用された人も、私も、カルトから抜け出せた状態を静止画像のように持っているのではない。 抜け出しはあくまで《活動形》であり、手を抜けばカルト的硬直に落ち込む*5。 それが社会での意識生活であり、呼びかけはつねに「宗教への勧誘」に見える。 「社会に参加しましょう」という呼びかけは、入りたくもない宗教に勧誘されるようなもの。 とはいえ私たちの生活は、ドグマ世界(社会そのもの)が支えてくれている。
脱洗脳は、活動形としてのみあり得る。 活動形である以上、誰かを「あの人はカルトだから」と名指したところで、名指した側がカルトではない保証にはならない。 「私はカルトではない」というのは、教説内容のアリバイではなく、分節する活動形でくりかえし生き直されるしかない。 そのつどリアルタイムに、体験を素材化する態勢をもち得ているかどうか。 その意味での当事者化は、「ひきこもり当事者」であることをやめたからといって放棄すべきものではない*6。 ひきこもり経験があろうがなかろうが、関係のなかでの当事者性は全員に問われている。


ひきこもり状態からの脱出は、「新しいカルトへの帰依」ではなく、脱洗脳の取り組みである必要がある。 しかしいまだ多くの支援事業は、「もうひとつ別の洗脳」に導くことでしかない。 学校カルトへの批判として始まったはずの取り組みがカルト化している一部の現実を、他人事のように看過するべきではない。 カルト化は、教祖化や団体名にとどまらない、日常生活の問題だ。



*1:斎藤環:「ひきこもっている人は、カルトには絶対行かない。自分がカルトだから」(参照)。 この周辺をさらに考え直す必要がある。(2005年7月に、この件であるかたよりメールをいただいたことがあるのですが、それにもろくにお返事できないままになっています。)

*2:宮台氏の議論は、彼自身が実際に救われているいきさつと、彼が若い世代に呼びかけるときの修行内容が解離しているため(参照)、事実上の詐欺のようなことになっている。彼の発言を真に受けてしまう人は、どんどん自意識に追い詰められる。宮台氏ご自身は、自殺した読者の件などで一度はそのことを考え直そうとしつつ(参照)、ご自分の教説の何が有害なのかには気づけていない。ここで導入される必要があるのは、「デタラメな世界での、完成した自意識」ではなく、未完成なままの分節過程そのものだ。

*3:「ニーズ」という語を前面に出す上野千鶴子氏の当事者論は、みずからの当事者性そのものを分析する必要に照準できていない。 ニーズという主観的要請は、さいしょから勘違いであり得る。 個人レベルでは想像的(イマジネール)ゆえに、社会的には「合成の誤謬」などのゆえに。

*4:自然科学を学ぶ人が、人文的には素朴な信仰を表明することがあるのは、このあたりの事情に見える。 逆にいうと、たとえば「数学的真理」と「境界の思考」の関係が気になる。 ▼私にとっては、アルコールを完全にやめた自己管理のかなめになっている「形式的な禁止」が、この周辺の話題になる。

*5:私がここで述べている「活動形」等の認識や方法論は、三脇康生の「制度を使った精神療法」や、岡崎乾二郎の美術批評を直接参照している。しかし私が彼らを参照することは、私がドグマティックではないことを保証せず、また三脇や岡崎自身も、その仕事がいくら優れていようとも、彼らの言動にはドグマ的な瞬間があり得る。(彼らの批評や臨床は、むしろそのことをこそ主題化しているように見える。「フレーム」や「制度」という彼らのキーワードは、そのためのものだ。)

*6:「○○当事者」など、静止画像(カテゴリー)としての当事者性は、そこに過剰に居直っても、それを過剰に拒絶しても、ドグマ的になる。 カテゴリー化を拒絶したところで、目の前の関係での当事者性は続いており、むしろ力点はそちらの分析にある