認識の方法 / 社会化の方法

國分功一郎氏『スピノザの方法』で、デカルトスピノザの認識態度が比較されている(第一部第一章)。 私はこれを、「社会化」の議論に重ねて考えたい。

《私は適切に社会化できていると、どうして言えるのか》
    • デカルトなら説得を目指し、「指標」に頼るだろうか。
    • スピノザなら「観念」の自律で満足し、外部に参照を求めないか。

法や契約という外部的承認を拒否し、内在的に社会性を考えるのがスピノザだ――それがドゥルーズの解説だった*1


社会性を「商品としての成功」に限定すれば*2、内在性を嘲笑するポピュリズムになる*3
しかし市場の拒否は、容易に独りよがりに堕する*4


ラカン*5の〈象徴化〉は、差異の世界に生まれ直すことであり、どんな象徴化にも残余物が現れる(対象a)。 象徴化は、成功し尽くすことがない、だから欲望が続いてゆく。 それは、分節表現それ自体がオートポイエティックに「わが道を行く」ことにあたる。 ⇒容赦なき欲望の道は、社会的には排除される道かもしれない*6


間違った意識に浸りきった精神と、間違った受容/排除をくり返す社会環境。
これは切り離せないはず。



メタ言説と、心身平行説



考えてみれば心身平行説は、《思考》と、《私たちの関係性や身体事情》のつながり方にかかわる。
知はメタ領域=天上界だけにあり、身体やオブジェクトレベルの関係性と切れている――権威主義者はそういう前提で言葉をあやつるが、私たちの存在は、そういう事情にはない。 知との付き合い方を間違うことは、心身や関係性に露骨に影響する。
この平行性を、《思考という労働過程》*7そのものに照準して検討しないと、社会的ひきこもり*8はうまく扱えない――それが私の見立てだし、「まさにそこで考えていたのがラボルド病院やスキゾ分析だったのではないか」というのが、今の私の理解だ。
國分氏の新著は読み始めたばかりだが、おかげでスピノザの名前にリアリティが出てきた。



【13日追記】 自由連想としての社会的行為 ⇒ 内在的分節としての解釈行為

自由連想の結果は、事後的に検証され、内在的に分節される*9。 私はその分節労働をこそ《倫理的で内在的な労働過程》とみている。
私が当事者発言と呼んでいるのは、その作業だ。 デカルトのように、外部的指標によって「事前にすべて確保する」ことが許せない。 100%の正当性を主張する言説は、事後的検証を認めない*10表向きのメタ言説を確保するために、「実際はどういう事情だったか」が隠蔽されるのだ。


ではスピノザは、ここでいうような理解を許してくれるだろうか。心身平行説を語りながら、彼も社会的行為そのものについては、事後的検証を考えていなかったように見えるのだが・・・



*1:野生のアノマリー――スピノザにおける力能と権力』に対するドゥルーズの序文より: スピノザの反法制主義」「諸力はそのままで社会化の要素である」

*2:「人々が私を受け入れたから社会化されている」/「売れなかったからダメだ」

*3:ラカンの《象徴化》を《商品としての成功》に置き替える議論は、こちら側にある。

*4:売れないことが、「真の批判的知性」の倒錯的アリバイになる。 ところが彼らは、ひそかに大衆的支持を切望し、それが本来的な権利とすら考えている(ただしポピュリズムではなく、「革命運動の大衆的気運の盛り上がり」と説明される)。 こうした立場は、内在ですらない。一党独裁ユートピア主義で、一喜一憂しているだけだ。 これが身近な関係性において、どれほど抑圧的な派閥主義となるか。

*5:ラカンは10代からスピノザに親しみ、30代に入ってすぐに公刊した博士論文『人格との関係からみたパラノイア性精神病』冒頭には、『エチカ』第3部定理57からの引用がある:「いかなる個人の情動でも、他の個人の情動とはけっして一致しない。その不一致の度合はちょうど、一方の人間の本質が他の人間の本質と異なるに従って、それだけ大きくなる」。 ▼『ジャック・ラカン伝』第2部第3章は「スピノザの解読」と題され、この博士論文と、『エチカ』からの引用部分フランス語訳についての解説が(少しだけ)ある。

*6:ラカン自身が国際精神分析協会(IPA)から「破門」され、本人がそのいきさつをスピノザの破門になぞらえている。

*7:苦痛と悦楽に満ちた身体的な作業工程

*8:のみならず、精神病理全般

*9:ここで解釈を「メタからのご託宣」と見なすと、すべてぶち壊しになる。 《解釈行為》こそが内在的分節労働だ。 解釈の無限遡行の問題は、ここにこそある。

*10:ディシプリン」ごっこは、そういう居直りをやる。