役割ナルシシズムと、「なかったこと」にされるプロセスの困難

ひきこもりに関連する中間集団では、お互いの関係調整と人物評価のロジックが、自意識と順応主義に支配されている。 結果的な《治療=順応》だけが問題になり、本人が《取り組む》プロセスは、主題にならない。 「観察主体」の側は、自分の取り組みプロセスを一切問われない*1


苦しむ “当事者” が「観察対象」であり、アカデミシャンや支援者が「観察主体」であり、お互いに役割ポジションに同一化し、安定してしまう。 そこに、役割ナルシシズムの硬直した反復がある*2


“当事者” が社会に順応しても、今度はその人自身が順応者としての役割を手にし、自分の経験した主体の困難は「なかったこと」になってしまう。――その困難をこそ取り上げようとする私は、まさに同じロジックで「なかったこと」にされてしまう


そこでは、「回復した状態」と「苦しんでいる状態」が端的に対比され、しかも回復者は、「自分は経験者なんだ」という同属ナルシシズムにも浸って “経験者” らと交流する。 「当事者」「研究者」という役割ナルシシズムはそのままに、「ナルシシズムに基づいた交流」がその場に居座る。 「和気あいあい」を目指すその場の窒息そのものを問題化しようとする分析は、ナルシシズムの政治において排除される。



【追記】

  • これは一般に、中間集団や「生きづらさ」そのものに関わり、職場参加した後にもずっと続くモチーフだ。 復帰することが順応することでしかないなら、ここで取り上げた問題はずっと続く。 ひきこもり経験者にもありがちな、傲慢で強迫的な順応主義は*3、人間集団や職場環境を最悪の状態にもたらす。 「右/左」「強者/弱者」の対立よりも、本当の敵は《順応主義》そのものだ。 ▼これは、勤勉を否定することではない。 自分のおかれた場所での分析を正確にするためには、調査や勉強を続ける必要がある。 問題は、ジャンルや場への距離の取り方だ*4
  • 必要なのは、「自分は不登校や引きこもりの経験者なんだ」というナルシシズムではない。 そこで経験された「プロセスの困難」が、分析的に主題化されることであり、その取り組みを通じて社会化されること。 結果的な自意識や状態像を社会化しようとすることは、商品のナルシシズムでしかない。 ここでは、プロセスとしての社会化と、生きることの動態化が問題になっている。
  • べてるの家』が取り組む「自己病名」においては、結果的なレッテルだけでなく、それを自分で創ってみるというプロセスが重要ではないだろうか。▼レッテルには、(社会的処遇への媒介のほかは、)一時的なナルシシズムの安定機能しかない。ナルシシズムの安定そのものがもたらす問題については、「動態化」という臨床的要請が出てくる。




*1:支援者の側が、「私は自分のためではなく、苦しんでいる人のために努力することにプライドがあるんだ」とナルシシズムに居直ったりする。

*2:「自分は当事者なんだ」 「自分は研究者なんだ」

*3:その順応主義が、本人や周囲の社会参加をより困難にしている。 少なくとも、支援事業全体のレベルで踏襲していい方針ではない。

*4:たとえば昨今の知的言説は、メタ領域への順応主義に満ちている。 神様目線のナルシストたちは、自分の労働過程を分析しない。