永瀬恭一個展「ノートの終わり・ノートの始まり」


私が気になる絵は、たとえば中西夏之参照)、高木紗恵子(参照)、岡崎乾二郎参照)などで、何か神経症的な順応主義と反対の、そこでもう一度「やり直させてくれる」ような、かといってぞんざいではなく、必然性を探す緊張感があって、そのための応援をしてくれるような――そういう作品を欲しているのだと思います。
完成形でフェティッシュになることを求めているような自意識が一番イヤで、それが私の社会的逸脱と関わっていそうですが、逆に言うと、私はそのような《もういちど取り組み直してみる=素材化》の作業でこそ、自分の社会参加を作り直そうとしています*1
永瀬さんの作品(参照)には同じ趣旨の雰囲気を感じていて*2、機会があればぜひ接してみたいです。 今回は栃木県とのことで、神戸に住む私には遠すぎますが、フェティシズムとは別の需要や活動があり得るという、大きな励みになっています。


永瀬氏のブログより:

 批判的に読む−こういった言い方が傲慢だとすれば、私はきっと「素材」として読んでいる。たとえば、なんとなくここでの「人間」を「作品」と重ねて誤読してみること。無論作品は認識主体ではないからそのような変換はありえない(すぐにこの言い換えは破綻する)。しかし、そんな根本的な過ちを犯すことで得られるインスピレーションがある。私に、あるいは製作に必要なのは反論されないただしさではない。生産的なミステイクなのだと思う。

作品を作ろうとするときの方法論は、《社会に参加し、それを継続しようとするときの方法論》ではないでしょうか。 ここで永瀬氏は、フェティシズムを目指すような、それじたい嗜癖でしかないような制作とは、別の取り組みを語っている。 それはそのまま、《つながりかたの方法論》でもあるはずです。
こうした、制作過程に照準したコミュニティ論を、社会学者や臨床家の誰もやっていない。
この永瀬氏の制作論こそが、社会参加臨床の基礎となる発想です。




【10月19日深夜の追記】

人やモノの自己呈示のあり方、その承認のされ方が、いちいち間違っていると思えてならない。
この日のエントリーを書く作業は、私を元気にしたのですが、
好みの作品を、ここに記した形で言葉にすることが、必然性と呼べるのかどうか。 私が気に入った作品は、別のかたちで言葉にされてもよかったはず。
私は、好みの作品に仮託して、自分に必要な方針を言葉にしただけかもしれない。 むしろあれらの作品は、私にとって、自分の必然性を言葉にしてみる、そのための触媒としてこそ*3意味があったのかもしれない。


関連して、重要なことが一つ。
私が、臨床上の必要性を口にすることができるとしても、それはひとまず主観的な確信であって、他者に向けた強制力をもつわけではない。 場合によっては、明らかな害のある方針をすら、人は選ぶかもしれない。



*1:「制作過程の継続」としてしかあり得ようのないものとしての社会参加

*2:「ノートの終わり・ノートの始まり」という今回のタイトルには、制作過程への照準を感じます。――そういえば私は、「何かを作っている過程」にとても惹かれる。それは、完成された何かへの転移とは別のものとして、臨床的にも語る必要があると思います。

*3:言及の対象としては、そういうものとしてのみ