4月23日 永瀬→上山

 私はこれを、《社会参加の臨床》というモチーフで考えているのではないか…。

    • 何をもって「社会参加に成功した」と見なすか
    • 苦痛緩和に有益なことは何か

 という議題設定なしに、専門性だけを強調するのは、順応主義の誇示にすぎない。それは「社会参加の臨床」にとって、有害というか、マッチポンプ的な態度ではないか。

 というご指摘ですが、これこそまさに実践的な思考(哲学)と感じました。
 そして、必然的に「成功」「有益」という語の内実が問われる。 「現実的」に切断してしまえば経済的自立こそが「成功」の基準となり、そのことによる社会承認が得られれば「有益」となりましょうか。
 しかし、これだけに単純化してしまえばそれこそ社会システムに「順応せよ」ということにしかならない。 このアポリアを問う中で「専門性」は自然に “ほどけて” いく、つまりその専門性を担保している自明の前提的効果(「専門」とは現実から切り出された問題に対する解決効果を上げられる技能のことですから)が問い直される筈と理解しています。逆説的に言えば、専門性の危うさが問われない専門家の問いは問いとして十分ではない。すなわち、

 苦痛の来歴を問うことが、専門性の来歴を問うことと同時にないと、作業場そのものがウソになってしまう

というわけですね。

 社会参加をめぐる苦痛を、固有の文脈を無視した専門用語に還元して「論じた」つもり、「対応した」つもりになる

 この箇所は、目の前の困難から自分を引き離して(抽象化して)、個々のディティールを専門用語という一般論、あるいはクリシェに置き換え流通しやすくする、つまり通俗化することが「専門家」の生業として経済構造に組み入れられていることから発生するように思います。 個別の問題を、その問題に切実でないマジョリティに通訳して対価を得ることが、現場の問題をリアルに考えるよりも経済的に “効率良く効果的” なのではないか。 そこで個別の現場は置き去りになる。


 これは、美術家、美術批評家においても同様でしょう。 上山さんの「作家性の神話は、創造性の尊重に見えて、じつはそれ自体が順応主義に思えます。」というご指摘は、こういうふうにも捉えられるように思えます。 状況は更に倒錯していて、「専門的一般論」のような意味不明な語句に “合わせた(順応させた)” 作品=現場が要請されねつ造される(スーパーフラット、なる概念が先験的に措定されてそれに「順応した」作品が要請されたり生産されたりする)。
 同時に、こういった検討はそれ自体が閉じてしまうと危険だ、というのは制作や発表の場で切実に感じるところです。 上山さんの

 むしろ現場を考え直す分析のていねいさのほうに、創造性というか、開かれた要因がある。(「交渉過程の根源化」は、悪しき原理主義ではなく、開放的なプロセスの提示を、イデオロギーとは別のかたちで行なうことだと思います。)

 といったところが、焦点になりましょう。 「交渉過程の根源化」が解放系を形成する、そのキーは、おそらく終わらない実践にしか求めようがないのかもしれません。 しかしそれ自体がアリバイ工作化する危険は常にある。
 濱野さんの議論はそこを個人の内面の問題ではなく、システム環境的に解決してしまおうという視点に見えてきます。これはとても「健全」な視点ですし、なんと言っても軽みがあって面白い。検討の過程を公開してしまう、そこに実際に第三者が介入しようとしまいと、視線にさらされるという意識によって状況が解放されるかもしれない。そこは意外と「近代的」な話で、フーコーの権力論=見られているという可能性/視線の織り込みが機能するのかもしれない。というよりは、近代に思弁的に語られた事の即物的、工学的な実現がステージを次に移していく、という議論(一時期されていたように思います)かもしれませんが。
 私たちのやりとりの公開も、濱野さんの問題意識と平行するかもしれません。



制度性の分析をすることは、それ自体がアリバイと化す危険がある。まったくそう思います。
斎藤環さんは、臨床と作品づくりへの外部性の担保を、「マーケット(市場)」に一元化したのだと思いますが(参照)、これはつまり、交渉関係を《売り-買い》に一元化している。 相手の制作過程ではなく、結果物のレベルにのみ干渉する。 自分も、相手に利用される商品(サービス)になる。
それに対して、制作過程・交渉過程の来歴や構成のされ方を問うとして、それは商品売買以上に、お互いのあり方に干渉することになります。 ここには、ひどい党派性と、それゆえの自閉的ナルシシズムがあり得る。
制度性を問い直す相互干渉の技法論が、社会思想などの文脈も参照しつつ、検討されなければならないと思います*1。 お互いの制作プロセスに照準した臨床論は、政治(集団的意思決定)を、どうマネジメントするのか。 またそれは、中・長期的な政策方針を、どう打ち出すのか。(お互いの関係がつねにリアルタイムに政治化されるなら、長期的方針が立てられません。)



*1:精神分析であれば、面接室のなかでしか介入がない。 技法論は、面接室にかぎることができます。 しかし、制度分析では…?