http://d.hatena.ne.jp/impuissance/20110928 より(強調は引用者):
アルトーにとって作品制作は非常に重要な仕事であった。アルトーは、社会の側から見れば精神病者であるが、アルトー自身から見れば社会のほうが狂っているので、自身は健康そのものであるという認識を持っている。アルトーの作品制作は自己治癒のためではなく、社会を回復する、あるいは狂気から救う目的で創られている。そもそも自身を健康だと自認しているのだから自己治癒もクソもない。しかし、社会の側から見ればアルトーは異様で理解困難な、つまり通常の認識を逸脱した作品を作り続けている病者として映る。病者だからこんな作品を作るんだと。アルトーの作品はこうして、アルトー自身から見れば社会の健康の回復のために、社会から見れば逸脱した狂気の表れとして理解されるという、回復と狂気の二面性で捉えられることになる。別の言い方をすれば、アルトーは作品に社会問題を表現しようとした。アルトーの作品が記号として指し示す対象は社会に内在する問題である。ところが社会の側の評価者はアルトーの作品に彼の内面を見ようとした。彼の作品が彼の心を解釈するための記号として捉えられたのである。
また、アルトーの芸術を制作・発表することで病んだ社会を治療するという試みは、クライアントに作品を作ってもらって、それをきっかけに関係を作って治療を始める芸術療法士と、態度が真逆である。アルトーの試みのほうが直接的な芸術療法ではないかという気がせんでもない(あるいはソーシャル・アートか?)。
これは自分の問題だ。
というか、これを自分のこととして引き受ける人が増えてほしい。
アントナン・アルトーが治療者だったとして、ドゥルーズ/ガタリ(以下DG)が彼を範例としたのは何故か。 単に「精神病者だったから」ではないはずだ*1。
既存制度内で「治療者」たろうとすれば、長い訓練の果てに資格試験にパスしなければならない。ではそれに対し、どんな条件を満たせば、DG が描こうとした臨床事業になるのか。
「分裂性分析 schizo-analyse」は、病的(とされる)過程を体験しなければ、遂行できないだろうか?(参照)。
私は今のところ schizo-analyse を、《理論や制度のメタな居直り》に対する、身体的な抗議過程と理解し、これを日本の当事者概念と絡ませようとしている。――では、この分析を維持させる激しい怒りの淵源を、《病い》という言葉で名指すべきだろうか。
私じしんの逸脱は神経症圏だから、精神病圏のそれとは違っている。とはいえドゥルーズ/ガタリは、彼らじしんが精神病圏ではない。 ⇒ アルトーの何が範例的なのか、その質的内実や条件を、描き出さねばならない。
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- 【参照】:「要素現象とドゥルーズ/ガタリ」(togetter)
いずれにせよ、この臨床事業の焦点は、
《論じる対象》のあれこれにあるのではなくて、《論じる側》に生じること、あるいはその関係性や分節過程のスタイルにあることは間違いない。 何かに取り組み始めた瞬間に、もう決断は終わっているのだ。(テーマの選択より前に、スタイルの選択がある。)
関連メモ
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- きっかけとして病や逸脱は重要であり得ても、それを「必須」とするのは、不毛すぎる。たとえば逸脱は、経歴上の逸脱だけではない。履歴書のうえでは途切れなく順応を続けていても、脱コード的な問題意識を抱えることはあり得る。むしろ課題は、そこをいかに賦活するかだ。(逸脱者も、たいていはすでに一定のコード内で考えている。)
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- ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』訳者の宇野邦一は、「この本は〈分裂症〉をいかに肯定的な「過程」として理解するかを本質的な課題としている」という。いっぽうスラヴォイ・ジジェクは、「狂気のなかに解放的次元を試したり、見出したりするのは間違っている」という(参照)。