シンポジウム 「ハイデッガーとフランス思想 <ひと>概念をめぐって」 参加

  • 日時: 2007年9月28日(金) 17時30分〜20時30分
  • 場所: 芝蘭会館本館・山内ホール

私的な研究メモになってしまうが、以下に少し記しておく。



戦いの「線上」で

争い・戦争を意味するギリシア語「ポレモス polemos、ΠΟΛΕΜΟΣ」について。
ヘラクレイトスの「断片53」より。

 Polemos pantôn men patêr esti, pantôn de basileus, kai tous men theous edeikse tous de anthrôpous, tous men doulous epoiêse tous de eleutherous. (参照
 戦いは万物の父であり、万物の王である、そしてそれは或るものたちを神として、或るものたちを奴隷とし、或るものたちを自由人とする。 (『初期ギリシア哲学者断片集』p.33)

ハイデガーはこれを、異様に独創的に訳しつつ論じている。

  • 「相互抗争はなるほど万物(現存者)にとって生産者(発現させるもの)ではあるが、しかし(また)万物にとって支配する保護者でもある。すなわち、それは一方のものどもを神々として、他のものどもを人間として現象せしめ、一方のものどもを奴隷として、他のものどもを自由民として(取り出して)設置する。」 (ヘラクレイトス 断片53)

 ここで言われている polemos は、神的なものおよび人間的なもののすべてに先立って支配している争いであって、人間的な仕方による戦いではない。ヘラクレイトスによって思惟された闘争は、現成するものを、まず対抗において相互に分離せしめ、それに現存の中での位置と存立と等級とを初めてあてがう。このような相互分離の中で、裂け目と隔たりと遠さと接続とが開示される。相互 抗‐争 において世界が生ずる(相互抗争は統一を引き裂いたり、破壊したりしない。むしろそれは統一を形成する、それは集約(logos)である。 polemos と logos とは同じである)。

合田正人氏が今回、サルトルハイデガー解釈などを取り上げながら一貫して意識していたのはこのポレモス論の意義であり、ここに「実存とシステムをめぐる新しい思考の可能性がないかどうか」という。


「分けると同時につなぐ」ことから、「線」が問題に。 以下、合田氏の解説。

 エルンスト・ユンガー「Über die Linie(線について、線を越えて、線上で)」(1949)。 ハイデガーは、「ユンガーが線を“越えて”トランス-リニアルな論を展開しているのに対し、私は線についての線上のトポロジーを展開する」と論じている*1
 「分ける」といえば、「crisis(危機)」の語源(参照)。 人間の居場所というのは常に危機的な分解地帯(kritische Zone)。
 ハイデガーは「polemos」「線」を「根源的な倫理」というが、どういう意味か。

内外を分ける「線」を「制度」と考えれば、「線上のトポス」それ自体を「制度論の場所」と考えることはできないだろうか。 ボーダーラインにとどまって、換骨奪胎すること。



共存在(co-existence)

加藤恵介氏はジャン=リュック・ナンシーの名を出しつつ「共に存在する」を話題化。
現存在が、本質的に「共に−ある」とすれば、お互いの関係に関わる《制度》の問いは避けられない。 【参照:「暴力の結果としての国家」】



出来事と分析

「生起(Ereignis)から、出来事(événement)へ」が佐藤吉幸氏の発表だった。
たとえば「出来事」を、「想定外の何か」と考えれば、ここでも《制度》を基点に考えられる。ただし「想定外の出来事」については、それに対する事後的な《分析》とセットでなければ、まったくつまらない話でしかない(「出来事だ!」と悦に入ってどうするのか)。
ひきこもっている人は、生起(Ereignis)に取り憑かれ、出来事(événement)を恐れているように見える。意識の状態が外界から孤絶して硬直し、外部との関係をうまくマネジメントできなくなっている。▼自分が巻き込まれている(自分自身もそれを生きてしまっている)制度を意識すること、起こってしまった「想定外の出来事」を事後的に分析すること。そこで制度そのものに着手して試行錯誤してみること。――こうしたことが、苦痛の臨床にとって重要に思える。 《着手》が方法論的に検討されなければ。



「忘却されるもの」

立木康介氏の発表では、「言辞(dit)の背後に忘却される言(dire)」が中心命題だった。
ラカンの議論を、「《言語という制度による抑圧》についての、制度化された議論」と考えてはピント外れだろうか。それに対する制度論を、抑圧や忘却と「回帰」についての、さらに自由度の高いダイナミックな分析的取り組みとして語れないか。
ひきこもり論では、再帰的な自意識地獄からの脱却が課題になる。そのためには、固定化された制度(自分自身の意識を含む)をつねに問題化し、組み直し続ける(そのような形で制作的に取り組み続ける)必要がある。制作的に取り組み続けることによってのみ維持される風通し、というものがあると思う。▼ラカン派の議論では、「忘却された dire」を孤立して際限なく意識することになり、その「思い出そうとする構造」それ自体が再帰性の装置を作ってしまうように思われる。その「思い出そうとする構造」そのものは固定されてしまう。



「現実とのつながり」

多賀茂氏は、フーコーが遺した著述全体の中でハイデガーへの言及がほとんどないことに触れつつ、「哲学によって存在論を打ち建てることへの、フーコーの嫌悪(と思われるもの)」を語った。 以下、多賀氏の発言から大意要約。

 「《夢は理性の側にある》と語るフーコーにとって、夢は現実とのつながりが実現している場だ」

現実とのつながりを失うことが狂気であり逸脱であり排除であるなら、「現実と繋がること」の方法や手続きこそが研究され改編されねばならない。

 「フーコーは、存在論とは違う仕方で存在と結びつこうとした」

私が徹底して問題にしたいのは、「現実への参加の手続き(そのスタイル)」だ*2。 手続きのスタイルを間違ったままどこまで努力しても、全部ダメな気がする。努力の方向を最初から間違っている。――とはいえ、そう言いつつ、時間は止まらない。存在への参加は続いてしまっていて、スイッチを切れない。



説明と臨床

精神科医である三脇康生氏は、1987年の木村敏の講演を聴講し(参照)感動したときの思い出を語りながら、「説明すること」(精神病理学)から、「一緒に生活すること」に向かった経緯を簡単に語った*3
治療者として、患者のための《保護膜》*4にどうやってなるのか。 病理学的に「説明」しても駄目だが、「単に一緒にいればいい」というのでもない。 ▼三脇氏はここで「中途半端に居る」「ときどきつきあう」というスタイルを紹介しつつ、それを「線上のトポスの構築」になぞらえる。――これは、「制度論」的発想の説明になっているのではないか。



感想など

  • どこかでドゥルーズハイデッガーについて、「存在論の僧侶」という言い方をしている。いわば存在論じたいが、一つの制度を成して見える。ドゥルーズが「出来事(événement)」という言葉にこだわったのは、最初から制度論的な考察だったのではないか。ただしそれは、試行錯誤の取り組み、事後的な分析などを伴わなければ、「言ってみただけ」で終わる。
  • ハイデガーラカンフーコーなど、各思想家の固有名詞は、「分析スタイル」の名札になっている*5東浩紀は、思想家やそれぞれの概念を「キャラクター化」するのかもしれないが*6、それよりも、各思想家を「論点」と見なしたほうが、ナルシシズムを回避できるように思われる(参照)。 自意識地獄としての「ひきこもり」を経験した私としては、これは美学的・思想的要請というよりは、苦痛緩和のための臨床的要請だ。




*1:有の問いへ」のことか。

*2:私的な記憶になるが、私は離人症的な激しい不安のさなか、ハイデガーを読むことでかろうじて自分を(世界とのつながりを)維持していた時期がある。

*3:もとは文学部で美学を学んでいた三脇氏が医学部で精神科医を目指した、そのきっかけの一つが木村敏の講演だったように聞こえた。

*4:「保護膜」というのは木村敏の言葉

*5:思想や学問によって、固有名詞の持つ意味が違っている。各宗教にとって開祖や預言者の固有名詞は特別であり、精神分析では「フロイト」「ラカン」といった固有名詞が決定的だが、科学を論じるのに、一人ひとりの科学者の固有名詞は(議論内在的には)どうでもいい。

*6:「キャラ立ちしている」という言い方をする。▼哲学史上に現れる著名な諸概念を「概念のキャラ立ち」とした東の議論は、読んだ当時本当に鮮烈だった。