ひきこもる人は、社会の外側にいるのか?

酒井泰斗氏のツイートより:

示唆的でした。
このご発言の酒井さんの文脈を存じませんので、私の勘違いかもしれませんが、
支援論の大事なポイントを思い出したので、メモしてみます。


端的に言えば、

 ひきこもった状態は、社会の外側なのか、それとも内側なのか?

  • 社会の外側だと考えると、支援は「内側に入ってこい」になる。
  • 社会の内側だと考えると、支援は「すでに居る場所を何とかしなければ」になる。



雑誌『ビッグイシュー』の往復書簡では(参照)、
斎藤環さんは明白に前者の発想であり、私は後者でした。*1


親に扶養されていても、それは「社会のなか」としか言いようがない。
とはいえ、「だからそのままでいい」ではなくて、
そこにはご家族や本人の苦痛があり、トラブルがある。
長期的にも、サステナブルではないだろう。ならば、
家族や職場や、さまざまな場について、交渉や調整が要る。
その作業は、意識の事情そのものまで変えてしまう。



ラボルド精神科病院 の制度論

当ブログでずっと取り上げている臨床論は、このあたりを巡っています。

精神科病院等の施設は、社会のさなかに囲いを設けますが*2、囲いの中が、《社会の外》であるわけではない。むしろ囲いは、「社会的な内部」の設計図とともにあります。「この中にいるかぎり、社会の外でしかない」というその思い込みまで含めて、社会的に設計されている。


ラボルド病院は、この《囲い》そのものをもう一度考え直す作業を、技法に織り込んでいます。いつの間にか自明視された囲いを、その境界線上にとどまって論じ*3、改編し、あるいはそれを「使おう」とする(参照)。 大小さまざまの《囲い制度》を放置せず、つねにそれをやり直し、書き直し、共有し直す――言葉それ自体と見分けが付かないような、当たり前すぎる枠組みについてまで。
囲いの内部を問い直すことができない人は、「外部」との関係も問い直すことができません。そこで社会復帰とは、「超越への迎合」でしかなくなる。やりなおす、という作業の要素が見当たりません。



「順応しているからアリバイがある」ではない

悩むご本人も、次のように考えがちです:

 ひきこもる自分は、まだ社会に参加していない

――この発想は、おそろしく反-臨床的です。
つまりこの考えは、ひきこもるフレームそのものになっている。


閉じこもる自分の「向こう側」に社会があるとすれば、そこに順応する人たちは、順応しているという事実そのものによって、端的に肯定されてしまいます。逸脱者から見て、「一般人」には絶対的なアリバイがあることになってしまう*4――これが最悪。 100%の肯定と、100%の否定を認識が往復するだけでは、作業が始まらないのです。


順応していようがいまいが、《すでにやっていること》がそれぞれにあって、相互作用しているわけでしょう。どうしてそれ自体を、具体的に考えられないのか。雇用されないと、自分の状況を考えちゃいけないのか?


自分の状況を具体的に考えないから、稼いでる人を100%肯定したり、その真逆として、ひきこもる人を100%肯定したりする(参照)。 でも、どっちについても100%の肯定や否定なんてあり得ない。現にある状況をいったんは受け止めて、そこから交渉したり調整したりするしかないじゃないですか。*5




cf.社会的排除――イギリス系とフランス系の相違

内部と外部については、以下の議論に重なるはずです。

 「排除」自体がすぐれて社会的な現象であり、排除する側とされる側とのあいだに 〔…〕一定の社会的な関係や相互作用がある以上、「排除」が「社会」全体からの排除であると考える人はいないであろう。「社会」の外側では、「社会問題」など生じようがないからである。 〔…〕 したがって、「排除」におけるどういう次元の「内」と「外」を強調するかは論者によって、あるいは文脈によって異なってくる。



単に「排除」とのみ言ってしまうと、排除されていないとされる内部については、ろくな検証が行われません*6。むしろ、いっさいは内部にあるのであり、その内部に、おかしな実態が隠されている。100%のアリバイのある人なんか、ひとりも居ない、「超越」に居直れる人は、いない――そこで論じるべきです。*7


ひきこもり問題を適切に論じられる人が一人も出ていないのは、
健康とされる参加のありようが、どこか間違っているからでしょう。



*1:斎藤氏は、カフカの「掟の門」について、ご自分は門の向こう側におり、「ひきこもる人は門の手前で逡巡している」と論じました(参照)。

*2:「全制的施設(total institution)」と呼ばれたりもするようです(参照)。

*3:社会生活や精神生活について考えるには、この《境界線上》が、決定的なモチーフになるはずです。たとえば、制度論集の共著者である合田正人氏が、ハイデガーの境界線論を取り上げています(参照)。

*4:「女」「在日」「障碍者」など、終身的な正規当事者の肩書きを得た人たちも、内部化される絶対的なアリバイを得たことになります(参照)。 私は、内部と外部の境界線じたいを、非正規化しようとしている。

*5:ひきこもる人が、自分の状態を肯定しようとして「解釈だけ」の空中戦をやるのも、バカげています。承認は、関係の中で具体的にしか実現できない。

*6:左翼系では、「外部」「他者」を尊重対象として固定することで、この尊重を共有する人たち自身が内部化されてしまい、党派性の内部が検証されません。

*7:これは精神分析が、社会順応を去勢や原抑圧で一元的に語りがちであることへの批判でもあります。超越は、あくまで内在的に、「内側から生きなおす」しかない。超越こそが「出来事」であるはずです(分析や改編は、出来事として生成する)。一元的に語られる原抑圧は、「揺るがしてはならない党派性」そのものに見えます。だからこそ schizo-analyse は、原抑圧の破綻から語りなおし、言葉を作り直すことになる。と考えれば schizo-analyse は、党派性を中心モチーフにしていると言えませんか(参照)。 資本制は、党派性の一類型として考えることになる。(階級意識を、名詞形による身分規定ではなく、生産過程に即して考えること。)