《分析》は、触媒というよりも、排除のきっかけになりがち

東京劇場―ガタリ、東京を行く

東京劇場―ガタリ、東京を行く

以下は、浅田彰氏による記述(p.144-p.145、強調は引用者

 数日後、坂本龍一との対話を終えたガタリに対し、坂本龍一を介して平井玄からひとつの計画が提起される。山谷から北下北沢のミニFM局まで、もうひとつの東京を横切る異質な横断の線を引いてみること。よろこんでこれに応じたガタリは、当日、あらゆるものに興味を示し、あらゆる人々と語り合おうとして、浅田彰細川周平、それにコリーヌ・ブレから成る即席通訳団をキリキリ舞いさせる。不完全な通訳を通じて、しかし、この分析家は実に敏感に状況を観察している。人々の音声、表情、身振り、なにひとつ見逃しはしないのだ。浅田彰と平井玄や竹田賢一との間に微妙な緊張を見て取った彼は、面白がって言う。 「われわれはひとつの小さな紛争地帯だ。その紛争地帯がもうひとつの東京を横切っていく。実に面白いじゃないか!」
 小さな旅が終わったあとも、紛争は解決されたわけではない。だがそれで何の不都合があるだろう? 警戒すべきは、むしろ、合意と調和の偽装だ。 「愚鈍な左翼」発言をめぐるやりとりをじっと眺めていたガタリは、ホテルに帰ってから浅田彰に言う。 「なるほど君は矜持に満ちて見事な理論を語ったかもしれない。だがどうだろう、もっと柔軟に集団の中に分け入り、分析装置=触媒装置(analyzer=catalyzerとして機能することはできなかったのかな。君はその機能を放棄しているように見えた」 「ふうむ、そうかもしれません。ともあれ、あなた自身はまさにそういう装置として機能しようというわけですね。実際、あなたの来日をきっかけとして、僕は今までしらなかったポスト・モダン派に出会うとともに68年残党組にも出会った。その両極の間でインターフェースとして機能せよ、というのが、あなたの助言でしょう?」 「まあね。君はそれを不可能な任務と言うかもしれない。だが、今の日本で、君や坂本龍一のような存在は、必然的にそういう位置に立たざるをえないだろう」



analyzer(分析する人、分析装置)が catalyzer(触媒)として機能するためには、その分析を聞かされた側に、相応の態勢がなければならない。 ガタリは「analyzer であれば catalyzer として機能できる」というのだが、ほとんどの場合、analyse などしてしまえば、排除される。 相手側の防衛的な態度を、強めることになる。

この浅田氏の報告は、登場人物同士の関係をナルシスティックにまとめ上げたようなものにしかなっていない。 分析そのものの即物性が触媒として機能するのではなく、自意識の戯れみたいになっている。 これはあとがき的な文章だからかもしれないが、そもそも浅田氏は、「schizo-analyse」の紹介において、「analyse」よりも「schizo」を強調する文脈を作ってしまった。 浅田氏は、フランス語もできるし難しい本も読める、でもいちばん大事なところで間違っていたんじゃないのかと思わずにいられない。

と同時に、ガタリ本人も、「分析さえすればそれが触媒になる」という発想は、それ自体としては一度はどうしても必要な認識だけれど、具体的な呼びかけとしては、楽観的すぎたんじゃないか。 彼がウリから学び、ラボルド病院で取り組んだような分析*1は、とにかく嫌われるのだ。



*1:その場にある《つながりのあり方》を、内側から分節するような作業。 スタティックに成立しているかに見える《関係》のロジックを、言葉にしてしまう。 分節プロセスそのものにおいて、政治性と臨床性が同時に生きられる。 関係のあり方は、分析作業を通じて変わってしまう。 誰も「単なるメタポジション」をとることができない。