「マジメさの反対は、フマジメではない」

失業について、「それには構造的排除の面がある」といわれる。 本人を実体化して責めても、本質的な取り組みにはならない、と。
同じようなことを意識について言い出したら、どうなるだろう。 「私がこんな状態なのは、させられてきた面があるのです」、と。
ありがちな責任転嫁ならバカげているし、場合によっては、病的にすら見えるかもしれない(cf.「させられ体験」)。 しかしここで問題なのは、意識のありかたそのものがある所与のスタイルで反復されており、それはなかなか本人の思い通りにはならない、ということだ*1サルトルの考えたような「自由」は、それだけでは使えない。


ひきこもる人は、だらしなくフマジメに見え、じっさい何もできないのだが、それはむしろ、ある意識のパターンに監禁され、そこにはまり込む以外に「自分」を反復する方法が見えなくなった状態といえる。

たとえば斎藤環は、マジメすぎる相談者たちに、いわば「フマジメ」を勧める*2。 支援者についても、マジメすぎる人を嫌い*3、フマジメな支援者をいたく歓迎する。――しかし単なる不真面目は、破綻や無責任・不公正でしかない。 また、意識してフマジメであろうとすることは、それ自体として真面目であり(フマジメであることが再帰的に選ばれている)、もういちど何かに取り組もうとした瞬間に、けっきょく以前と同じ「真剣さ」のパターンを踏襲してしまう。 もんだいは、そこで呼び出される再生産のパターンなのだ*4


だから鍵は、その「マジメさ」のパターンを、協働で組み直す作業にかかっている。 「何をすれば仕事をしたことになるのか」を、議論すること。 それは自動的に、自分たちの《つながりかた》を考え直す作業になる。
「マジメさ」は、度し難いナルシシズムにひたっている。 とはいえベタに反抗しても、またマジメさを反復してしまう(ex.新左翼)。 マジメさとは、ある「正しさ」を固定して、それを無防備かつ暴力的に信じ込むことだ*5。 ほとんど全てのコミュニティは、そういうマジメさを共有して成り立っている(「反省なき文化強制」)。


自分のマジメさに監禁され、身動き取れなくなった人が多すぎる。
何もできなくなって途方に暮れる姿は、「マジメすぎる」。――これは、褒め言葉でもなんでもない。



*1:このあたりの原理的な詳細については、意識そのものの受動性という、(メルロ=ポンティ精神病理学にみられるような)精緻な議論が必要だ。ここでの受動性は、生物学的精神医学が考えるような、単に物質に規定された受動性ではなく、実存プロセスそのものの受動的性格にあたる。(茂木健一郎ではどうしようもない)

*2:フレンドリーなオタク談義と、哲学者なら中島義道

*3:これには、「燃え尽き」にたいする警告の意味もある。 “熱心な=マジメな” 支援者ほど、早くに燃え尽きてしまう。

*4:ずっと引きこもっていた人が人づきあいや仕事に関わろうとしたとき、注意すべきなのは、以前と同じマジメさのパターンを踏襲してしまうことだ。たとえば自助グループを作ろうとするときにも、基本的に彼らは自分のマジメさを反復する以外の方法論を持っていない。

*5:「正義」を連呼するのと同じタイプの、正当化作業の制度的硬直。 これは、「幼児性」の定義といえるかもしれない。