中間集団と主観性の編成過程

中間集団は、それ自体が事業として反復される。
主観性と中間集団を主題化することは、労働過程と「資本のもとでの労働過程」を主題化することに重なる。


この問題意識こそが、一方的な事業計画(専門性や中間集団の作法)によって潰される。
この論点は、関係性の難しさを論じるためには絶対に必要だが、既存作法で居場所を確保する者には都合が悪い。


現状の社会性のあり方それ自体*1が、解決すべき問題の一部分となっている。
あなたの問題意識のスタイルは、第一歩目ですでにおかしい。


必要なのは、努力の質の転換なのに、彼らはそれを量に還元する*2
本当にやるべき仕事が質として見えてくれば、量はおのずと実現される。



*1:所与の《社会性》は、事業計画として与えられる。 私たちはいつの間にか、その計画に従っている。 自発的な「悩み」や支援・研究の発想は、反復される事業のかたちであり、そのスタイルこそが苦痛形成に加担している。――彼らの事業スタイルは、自覚されないプライドの根幹を成すため、そこを揺るがす当事者性の突きつけは、執拗な怒りにあう。関係性や努力それ自体の《作法》をめぐる問題意識が、激怒と嘲笑に遭うのだ。 ▼学問の制度的思考は、問題の再生産に加担している。 「主観性それ自体の生産様式」(参照)というレベルでの当事者性は、徹底的に抑圧される。(孤立して問題化しても、無視されるか、せいぜい「使い捨てにされる贈与」にしかならない。周囲の生産様式に回収されて終わるのだ。ここには戦術が要る。)

*2:無自覚的な成功者には、質の問題が見えない。失敗した者も、自分が巻き込まれる「問題意識の作法」に気づいていない。悩み方が、すでに奴隷的になっている。(反体制的な人も、制度的問題意識を反復することで共同性を確認している。そこに全体主義がある。)