主観性と関係性

周囲が信仰者で占められていたら、自分も同じ信仰を持ったふりをしないと参加できない。
ひきこもり問題において、意識と参加のマネジメントが総合的に問われている*1


すでに参加を持続させている人が、意識と関係性を問い直すこともせず「集団なんて要らない」と言う矛盾(参照)。 むしろ集団は、なくそうとしても「生きてしまわざるを得ない」。 そこにはすでにスタイルが生きられている。
意識すれば関係性をなくせるわけではないし*2、「意識すればうまく行く」わけでもない。――無意識のようなモチーフが、関係性で問われている*3


ひきこもりを論じる自分は旧態依然たる参加スタイルを反復し、「ひきこもりを対象化した」だけなら、本質的なことは何も扱えていない*4。ここをごまかすなら、実態を無視した思い込みを押し付けることになるか、弱者擁護のイデオロギーでお互いのナルシシズムを満たすか、その程度の話にしかならない。
医師・ひきこもり経験者*5・学者・ライターらの語り口と、それを支持する集団的な思い込みが、お互いを支え合う。このマッチポンプの補強に、膨大な予算がつぎ込まれる。



洗脳と脱洗脳――持続される環境改善

元気な人だけを脱洗脳するのも、ひきこもる人だけに「カルト」とレッテルを貼るのもおかしい。脱洗脳の継続的な事業こそが共有されなければ。
どこかの時点で「脱洗脳できた!」形があるのではないのに、それがあり得るかのように固執することも、「自分はすでに脱洗脳の完了形だ」と主張することも、周囲を黙殺した妄想的固執になる*6


ひきこもる者は、状況との交渉関係を持続できず、ひたすら意識のなかのあの「@」に固着することしかできない*7。 いっぽう交渉関係については、生態系の意識を持つ必要がある。それは本人だけをチヤホヤすることでもなく、集団的な環境改善運動にあたる。そこには、本人も協力してもらわなければならない。




*1:たとえば宮崎学氏が近代ヤクザを肯定しながら論じておられることは(参照)、ここでのモチーフと似通う。 とはいえ任侠的共同体は、それ自体が関係作法の問い直しを許さないものとして現れる(そして、だからこそ絶大な力をもつ)。

*2:経済生活のマネジメントがなければ死ぬしかない

*3:「自覚されない関係パターンが集団的に生きられている」というのは、ユングのように集合的無意識を実体化することとは全くちがう。 ▼「仲間を作りなさい」とだけ言い、ご自分は知的ゲームの党派活動にいそしむやり方は、すでに生きている関係パターンを絶対化している。関係そのものが臨床上の主題であること、またご自分のやり方がマッチポンプとして機能していることに気付けていない。

*4:本質的なことを何も考えない方が集団的ルーチンが回るし、行政には都合がよい(予算がおりやすい)。

*5:最中の者をふくむ

*6:「自分だけは脱洗脳されきっている」と主張する者こそが、周囲にとってのカルト的主体となる。必要なのは脱洗脳事業の持続と、そのための状況整備だ。

*7:嗜癖については、「形式的禁止」を提唱しておく。