副題にある「資本主義と分裂症」という言葉は、
そういう話でないなら、苦労して読み解く意味がない。
左翼系論者の多くは、「資本制と精神医学を批判し、弱者を擁護すればそれが正義」という幼稚な話しかしていない。
論じる自分も関係を生き、《対象的=臨床的》に何かをしてしまっているのに、その実態を分析させず、メタ正義にふんぞり返る。 理論意識を持ちさえすれば、自分の当事者性を棚にあげられると思っている*1。
難しいのは、このモチーフをどう制度的に運営できるか。
「そのつど分析するしかない」というなら、手続きが生まれないで終わる*2。
けっきょく、「普遍化できない分析過程を地道に主張し続けるしかない」という分析の地位(権限主張)で終わるか。だからこそ分析が政治的であるというべきなのか。
科学にもメタ正義にも逃げられないとすれば、分析過程の権力をどう構成すればよいか*3。 これは技法の問いにあたる。
*1:《当事者性=弱者性》ではない。立場の弱い者は剥き出しの関係に晒され、《対象=臨床》責任を告発せざるを得ない。しかし弱者という役割の権力(およびそれを擁護する権力)に居直った者は、そこで権力を行使した側としての責任を問われる。 立場の強い者には、関係当事者としての責任が問われる。
*2:福祉系にありがちな人文的ロマン主義。 主観的思い込みへの籠絡。
*3:確立されるべきなのは、単に「弱者の味方をする権力」ではなく(それでは擁護を標榜するだけで無条件のアリバイになる)、《対象性=臨床性=当事者性》のありかたをそのつど検証する権力である。 この権力の行使過程(=分析過程)は、それ自体が臨床過程だが、集団的合意には達していないし、その手続きも持っていない。