止めること と 動かすこと (メモ)

《正しさ》の多くは、主観的にも集団的にも、静止画像として求められる。


科学であるために満たすべき要請と、臨床過程であるために満たすべき要請は両立できない。 スタティックに焼きつける科学*1は、「動きを止める」努力にあたる。 しかし臨床過程は、むしろ動かそうとしている。

    • 度を超えて「科学であるべき」と勘違いした医療的対象化は、動きを止めてしまう*2
    • 最高に動きをもたらす「制作過程の中心化」*3は、まずは主観的でしかない(それゆえ却って硬直を生みもする)。 場当たり的に一喜一憂し、ナイーブな理解を手続きもなしに周囲に押し付ける*4形式的禁止とのバランスに失敗すると、主観的惑溺の中でつぶれてしまう。




*1:たとえば「E=mc2

*2:浜渦辰二精神病理学は「失敗した学問」なのか?」参照。 《動きをもたらすこと》は、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』の中心課題として語られる。

*3:単に作ればいいのではなく、分析過程そのものが制作として中心化される。それが首尾よく実現するには、制作過程が近代的前提に縛られてはならず、プロセスが全権をもって分節し直す必要がある。 ⇒制度分析や分裂分析は、「プロレタリア独裁」を分節過程の中心化として論じている。(そこから政治哲学的主題を描き直そうとしている)

*4:とはいえいま問題になっているのは、むしろ「手続きは踏まえているが、それによって必要な論点を抑圧している」ことだ。 対象の事情よりも、学問や業界の事情が優先されてしまう。