廣瀬浩司氏の制度論

以下の引用は、

より(強調はすべて引用者)。 廣瀬氏はフランス思想と現象学がご専門ですが(ご本人のHP)、単に文化左翼にとどまらない “臨床的な” 議論をされています。



メルロ=ポンティ

 制度として沈殿した諸構造が主体の構成をどのように媒介しているのか、そしてまた、この制度的媒介を通して、主体がどのように相互主観性や歴史性へと接続するのかという問いが正面から取り上げられることになるのである。 (・・・・) この間いに答えるためには、シンボリックなシステムの持つ「惰性」や「空間性」を組み入れたうえで、「制度化されたもの」へと行為によって問いかけるような、新たな歴史的「主体」の理論(「制度化する主体」の理論)を練り上げる必要がある。

 この「多孔性の存在」を彼は「肉」と呼びかえていくのだが、 (・・・・) 「多孔性」とは、相互浸透と障壁の両方、すなわち充実と欠如との双方を含むような性格を指し示している。 (・・・・)
 メルロ=ポンティは「受動性」についての講義において、このような意識の「盲点」のことを「側面的受動性」と呼ぶ。それは、意識そのものがその作用の過程において内的に遭遇すると同時に、意識そのものの能動的作用を裏打ちし、それを可能にし、意識の哲学によっては決して正面から主題化・対象化できないがゆえに、「側面的」と呼ばれる。

 この点について強調しておくべきことは、この受動性の主題が「制度化」の問題と直接に結びついていることである。側面的な受動性とは、呼び起こされたり、痕跡として残っているような記憶を越えた時点で、「根源的に制度化されてしまっているもの」の経験である。 (・・・・)
 おそらくこの時期のメルロ=ポンティの思想を取り上げ直す最大の意義は、制度化的な主体の理論と、根源的・自然的な受動性の問題が、ひとつの問題の両輪として打ち出されていたことだと思われる。

 メルロ=ポンティは、「制度化する主体le sujet instituant「制度化されたものinstitué との相互関係のただなかに、相互的な基礎付け、さらには「循環」や「運動」を暴き出し、意味の自己生成の場を見出そうとする。 (・・・・)
 制度化する主体は「ある種の惰性」を内在しており、それが行為においてつねに「規範」「水準」として働いている。 しかしながら主体の行為は、すでに制度化された規範によって完全に決定されるものではない。 (・・・・) 制度化する主体は、規範的でもあり、出来事の発生の場でもあるような領野につねに斜行的ないしは側面的に参入しているのであり、主体そのものもまた、このようにしてつねに更新されるひとつの領野として自己を設立するのである。

 「制度」と呼ばれるものは、このような意味の生成の場であり、「共通の意味」の沈殿の場であり、そしてコミュニケーションのシステムとその変容の場である。 「語ること」や「思考すること」は、概念や意識としてではなく、協働的な(ガタリ的な用語で言えば「集団的」な)発話行為のスタイルとして記述されなければならない。 この制度の媒介的な作用のことを、メルロ=ポンティは「斜行的」コミュニケーション、「斜行的」意味として記述する。 それは自己と他者という主体のイニシアティブに依存して発生するものではなく、むしろ「制度の制度に対する問いかけ」として自己媒介的に生まれてくる。 だからこそ自己と他者は、「自己破壊」の危険を冒しながらも、それをともに取り上げ直すことで、両者のコミュニケーション的な行為のシステムを変容させるような「語る言葉(parole parlante)」すなわち「制度化する言葉(parole instituante)」を、ふと発することになるのである。


ガタリ

 精神分析がこれまで提起してきた、「絶対的なナルシシズム」と「社会的適応」の二者択一の彼方において、「特異な社会的な布置」を見出していかなければならないのだ。

 「制度分析」は、反精神医学のように、「薬学的な機能を拒否すること」「制度の革命的な可能性のすべてを否定すること」を目ざすものではない。 究極的には反精神医学は、精神的な疎外=狂気(aliénation)と社会的な疎外を混同し、狂気の特殊性を消し去ってしまっているのだ。 制度を否定し、狂気を一般化するのではなく、むしろ「現代社会一般、社会的領野の総体をこそ、その主体的な立場における狂気の特異性との関係で解釈しなければならない」。

 むろんのこと、以上のようなガタリの「制度分析」は、ジャン・ウリーやトスケイエス「制度的(制度における、制度に対する)精神療法」の延長に位置付けられる。 彼らにとって「制度」とは、「法」や「契約」に変わるモデルを提供するものであるからだ。 「絶望的な契約の形式に焔りがちな反精神医学」と「セクター方式の精神医学」とのあいだで、「制度的精神療法」は困難な第三の道を模索してきた。 ガタリの課題はまさに、病院にはとどまらない、このような意味での制度を「真の創造の対象とすること」であり、狂気と革命はひとつのものと考えることによって、「欲望する主体性」という特異な立場を維持することなのだ。


メルロ=ポンティガタリ

 両者において現れてくるのが、「絶対的なナルシシズム」と「社会的な適応」の問、主体と客体、上部構造と下部構造、生産とイデオロギーといったもろもろの対立を逃れ去るような「特異な社会的な布置」であり、「横断性」の次元である。 (・・・) こうした襞(ひだ)や切断においてこそ、自己と他者といった、すでに制度化された諸項の間に、「最大限の交換」(ジャン・ウリ)が行われるような条件が作り出される。そしてこの交換は、感情、もの、言語などすべての次元にまたがっている。

 さらに両者において、制度的な次元とは、実践的であると同時に分析的な次元である。 両者とも「ふと生じるもの」や「自発性」に全面的に信頼を寄せるのではなく、それを取り上げ直し、無意味を意味へともたらすような実践を、「集団的な」行為のスタイルとして記述しようとしているからだ。実践的でも分析的でもあり、活動的でも解読的でもあるような「装置」や「機械」、「『行為』と『もの』の双方を含むような運動の総体」、このようなものの設立こそが、両者が共有するモデルであると考えられる。


メモ

    • 「法や契約にかわるモデルを提供するものとしての制度」というあたりは、私の疑問としても一番の焦点。 受動と能動が混然とした《分析=触媒》が重要だとして、その《分析=触媒》への否認や抵抗はどうするのか。 「見事に指摘されたからこそ硬直する」ということが、実際の関係の中で起こる。
    • psychothérapie institutionnelle」を、「制度における、制度に対する精神療法」と意訳されたのは、ものすごく示唆的。




*1:筑波大学の紀要 『論叢 現代語・現代文化』2010 Vol.4掲載(参照