主体性の様式

宇野邦一によるガタリへのインタビュー 「スキゾ分析の方へ」*1より(強調は引用者)

 私のしたことは、無意識の形成や主体性の生産を明るみに出すことを可能にするある種の《言表行為の集団的アレンジメント》(agencement collectif d'énonciation)を定義し、機能させることだ。 (p.18)

 物語における言表行為のアレンジメントは、原則としてメタモデル化の活動と定義されるだろう。 つまりそれは様々な形のモデル化を通じて、一つの器官なき身体、新しい座標を構成し、生産する能力なのだ。 (・・・・) いつも新しいのはこのメタモデル化であり、表現の突然変異はこのメタモデル化によって起きる。
 物語は古代社会においてすでに主体性を形成するものだった。 (・・・・) 一つの新しいアレンジメントが、新しいリビドーの組織を与えるようになるのだ。 こんなふうに物語は主体性の自動生産装置となる。 かつてエクリチュールの機械は、属領化された主体性のアレンジメントに従っていたが、物語はやがてそれ自体で主体性を生み出すようになった。 これによってエクリチュールの転換が起きる。 新しい、資本主義的主体性の生産が行なわれ、物語やメタ物語が主体性の全体を資本化するのだ。 (・・・・) 「私はあなたを主体化してあげましょう」。 (・・・・) 北アメリカのメディアによって修正され、完成された主体性が贅沢としておしつけられる。 (p.24)

 精神分析は物語の再来、家族小説の再発明なんだ。 労働の集団的な組織によって、主体性は資本主義的な主体に完成されるのだが、この物語、家族小説を人は家にもって帰り、頭の中で、眠っているときも性交するときも分析医のところでも、これを語りなさいと強制されているわけだ。 こう考えていくと、物語はどんな意味でも文学的現象に限定されるわけではないことがわかる。 物語は主体性の様式の全体を資本化するからだ。 文学の代表者、体現者が存在することは確かに無視できない。 金を管理する銀行家の役割が存在することを無視できないようにね。 しかしそれは貨幣の現象が銀行家だけに関係するということではない。社会のあらゆる場所、貨幣経済に関わる場所にすべて関連している。 文学、エクリチュールによって仕事をする人も、あらゆる人々の関係する主体性について仕事をしているのだ。 (p.24-5)



この議論は、そのまま引きこもり臨床論のかたちをしている。




*1:現代思想1984年9月 臨時増刊号(vol.12-11) 総特集 ドゥルーズ=ガタリ 【絶版】 pp.12-29