分離の内面化――スキゾ分析と精神医学

「スキゾ分析」が成立するための論点はどこか?(impuissance さん)より:

 ガタリ

  • 抑圧‐象徴界神経症の方ではなく、
  • 排除‐現実界‐スキゾを含んだ精神病の方へと向かっていくという構図だが、

 そこで現実界の豊かさを描こうとするのである(ガタリはあくまで精神病の研究を契機として見えてくる豊かさの領域を描こうとしたのであって、精神病者を特権視し英雄化しようとしたわけではない点に注意が必要)。 〔・・・〕 「スキゾ分析」が成立するとすれば、ラカンの言う「排除」の捉え直しの点ではないだろうか。 〔・・・〕
 主体化について見れば、ラカン隠喩から、ガタリ間接話法(言表行為の集団的アレンジメント)から説明している。前者ではシニフィアンが基軸になるが、後者はスタイル(文体)の形成が基軸になる。主体の在り方、捉え方も全然異なってくる。

このエントリを受けて、
togetterドゥルーズ&ガタリは、精神医学からみて何を語ったのか精神科医@schizoophrenie さん)

 ラカンシニフィアンで捉えようとした(とD&Gが誤読する)ものをD&Gは強度とスタイルによって捉えようとしたという話。以前私が書いた http://t.co/72yn7qAn に通じる論点。

 D&Gの分裂病理解は、良い意味でも悪い意味でもかなり旧態依然のもの。それは、彼らが分裂病プロセスをヤスパースから直接引いていることや、引用文献からも分かる。いずれにせよ独仏古典精神医学に忠実。彼らの革新的なところは、それを経済学や主体の生産様式の問題に結びつけたところだろう。

 D&Gは「欲望に欠如をみるのはけしからん。むしろポジティヴだ」という話を分裂病論の水準でしている。欲望はふつう神経症水準での話なのに。あれ?話の水準かわってるよ?というお話。

 D&Gの翻訳で、いつまでも「délire(妄想)」「錯乱」と訳し続けていると、こういった臨床的水準の論点はまったく見えてこないままにとどまる。それは本邦におけるD&G受容の大いなる不幸である。ということを、(いい加減くどいけれども)強く主張したい。
 今そこでおこっていることが「錯乱」なのか「妄想」なのか、という判断は精神科医の臨床実践においては日常風景ですらある。つまり、器質性疾患によっておこった錯乱=意識障害なのか、分裂病によって生じた妄想なのか、という鑑別診断がなくしては、治療は開始できない。



このお二人の指摘は、ドゥルーズ&グァタリに取り組むなら絶対に避けて通れない*1
しかしこれだけでは、集団的状態の変遷を、原理的に考察できない。


私はそこに、《労働と所有の分離の内面化という論点を加えたい*2。 これは、労働過程のマルクス的分析において、搾取うんぬんのイデオロギー的糾弾より前に、プロセスとして何が起こっているかに照準するものだ。
マルクスの議論においては、資本家と労働者は、経済的カテゴリーの人格化でしかない。必要なのは、プロセスに起こっていることを概念的に把握すること。マルクスは、労働と所有の《分離》を、資本制的生産過程の出発点としている(参照)。


その極限では、「世界中がプロレタリアート(所有から分離された丸裸の個人)であふれ返る」というのが、教科書的なマルクス主義の主張だった。しかしそうはなっていないので*3、「予測は外れた」と言われるわけだが、私は分離の極限を、プロレタリアートの増大ではなく、主体化のプロセス(主観性の生産過程)で考えている。


分離がたんに外的な間は、私は資本家に雇われたときにのみ、対象から《分離》*4される。しかしその分離が社会全体を覆い尽くし、ついには私たちの内面生活の前提となったとき、私は、意識するより前に、対象世界の全体から分離されてあることを、意識の再生産の前提にし始める。大地の底は抜け、私は宙吊りになる。


古典的なマルクス主義において、極限化した《労働と所有の分離》は、「必要な人に必要な物を」によって克服される。資本による収奪ではなく、合理的な計画経済による《一致の回復》――これが革命理論だ。 しかしこれは、全体主義にしかならない。全体主義とは、分離を廃絶することではない。中央集権によって、分離を固定することだ。資本の運動(過剰流動性をもたらす《分離と一致》のダイナミズム)を廃絶し、国家そのものを「唯一の資本」にすること。それは、搾取構造の全体主義的固定にすぎない。


そうすると必要なのは、分離が極限まで進むダイナミズムを受け入れたうえで*5全体主義とは別のしかたで、プロセスとしての一致をやり直すことになる。スキゾ分析や《漏洩線 lignes de fuite》は、マルクス的分離の極限において、特異的な回復過程を論じようとしている*6

    • 「モダン/ポストモダン」のような、統合と分断のスタティックな対比では、労働過程そのものに生じる《分離》という契機を、扱うことができない。
    • 分離の内面化は、神経症や schizophrenie の状態像を変えるだろう*7



ここにあるのは、分離をもたらす資本のロジックと、一致をやり直すしかない素材のロジックの対立とも言える。( 佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』)


マルクスは、動物と人間のちがいを、労働過程においてこそ語っていた*8。動物には起きないタイプの集団的変遷は、労働過程のメカニズムにその原理的な淵源をもつ。 労働過程がヒトの形をしているので、変遷は物質や生命のロジックに還元できない。
つまり、物質や動物に生じる対象化と、人間に生じる対象化は違っている。あるいはいくら人工知能を進化させても、それは物質反応を複雑にしているだけで、《労働過程》ではない。人間的な対象化は、単なる物質反応ではない。




*1:むしろ、これらの「あたりまえの論点」が抑圧されていた事情について考察する必要がありそう。日本で『構造と力―記号論を超えて』が流行し、「ドゥルーズ&ガタリ」「スキゾ」が流行したのは、もう30年近くも昔だ。

*2:書籍『組立〜作品を登る』掲載の拙稿では、この点に触れている。その注にも記したが、私はこの《分離の内面化》という着想を、1987〜8年ごろ、表三郎氏(駿台予備校大阪校)の講演で聞いている。とはいえ表氏自身は、その後マルクスから離れてしまったらしい。 cf.『答えが見つかるまで考え抜く技術 (サンマーク文庫)

*3:とはいえ、「Occupy Wall Street」で語られたWe are the 99%というスローガンは、所得上位1%への富の集中や、その少数派の過ちの代償を残りの99%が払わされている、といった状況を告発していた。

*4:マルクスにおいて《分離 Scheidung》は、労働と所有の話であり、《剥離 Ent-gegenständlichung》は、人間的対象化の話になっている。マルクスヘーゲルを褒めるのは後者の場面だ(参照)。

*5:「脱領土化 déterritorialisation」と言っているのはこの話だ

*6:それはあくまで私の解釈。ドゥルーズとグァタリが自覚的にそう考えていたと言えるかどうか。

*7:マルクス的《分離》の精神病理学的帰結については、まったく論じられていないのではないだろうか。→文献があったら、ぜひご教示を。

*8:資本論』第三篇第5章第1節