「おばちゃん問題」

先日お会いしたフランス人女性 A.A. 氏(参照)が震源地となって、「おばちゃん問題」の静かな恩恵が続いている。 以下は知人との議論を経たメモ。

    • 《おばちゃん》はふつう、「分析が通用しない」「センスがない」「あつかましい」「性的魅力がない」など、悪い意味で使われる。 しかしそれはむしろ、存在の抵抗を話題にするのに都合がよい*1
    • おばちゃんの存在感には、美術批評に言う「マチエール」の問題が潜んでいる。 臨床上、「おじちゃん・おばちゃん」が有効であり得る。 これは実年齢や外見の美醜ではない。 若く美しい人も、おじちゃん・おばちゃんとして機能できるか。 前衛意識のナルシシズムとは別に、身体や言葉ごと触媒になれるかという問題。
    • 多くの人が「最先端」「洗練されてる」「かっこいい」などの標榜で、神経症に閉じてゆく。 実は「オタク」も、どうもこの文脈にある。 おばちゃん的マチエールの抵抗感をどこまで無化できるか、で勝負しているような。
    • セクシュアリティジェンダーは、直接話題にするのは trauma 的すぎる。 日常性やコミュニティ問題の一環として論じるべき*2宮台真司的な《女子高生》ではなく、ここでいう意味での《おばちゃん》が重要。 これは、左翼的な「高齢女性を差別するな!」とはまったく別の主題化。
    • 著名な思想家の話を聞くのと、「分析的な無名のおばちゃん」にお会いするのでは、後者の方がはるかに元気になれた。 関係性における機能のしかたが違う。 「あの○○が来た!」というのは、実はどうでもいい。 実際にその人が分析の営みとしてあるいは触媒としてどう機能できたか。 その点に注目できないようなら思想家としても×*3
    • ひきこもり問題やケア労働を引き受けているのは、多くが「おばちゃん」。 おばちゃんという存在の硬直は、多くの社会問題に直結する。 逆にそこをほぐせれば。
    • 必要なのは分析を担い、触媒になれるかどうかであって、単におばちゃんを称賛するという話ではない。 生活場面での意思決定の難しさ、凡庸な偏見、ポピュリズムをも主題化させる。
    • A.A. 氏との面会で体験したことは、「日本の知識人がフランスのカリスマに会う」ような設定とは、つながりの作法が違う。 この《つながりの作法》を、日本の知識人は*4まったく主題化しない。 これはフロイトが人間の集団として「教会と軍隊」を挙げたことと直接かかわる*5。 触媒として機能するおばちゃんへの転移は、カリスマ思想家への転移と違っている。 しかしそれでも、おばちゃんが「かっこよく」見えて仕方ない。
    • 一部の左翼系知識人が、関西出身でない人まで関西弁をやたら使いたがることの奇妙さ。 方言が、「庶民派」というアリバイの自意識的誇示になっている。 ▼それとはまったく別に、身体性の問題として方言は大事。 無理に標準語にすることが、思想まで歪めていないかどうか。




*1:私が《素材化》に固執したのは、(ラカンが言うような意味での)症候的創出だったように思う。言葉がツルツルになる思想の現状に耐えられない。 多くの知識人や臨床家は、自分が前衛だという自意識のもと、ツルツルのナルシシズムを誇示して終わる。その人のマチエールが見えない。 ▼この固執は、「リアルとは何か」にこだわる斎藤環氏とはスタイルが違う(『フレーム憑き―視ることと症候』「はじめに」など参照)。 結論というより、《取り組みかた》のレベルに症候的選択がある。

*2:《おばちゃん》の主題化を通じて、「つまらない日常」「男女とは別の役割やセクシュアリティ」を論じられないか。

*3:ガタリ来日時の浅田彰氏(参照)は、その点に気付けていたかどうか。 ちなみに今回来日されていた女性は、ガタリのことは名前すら知らず、それが猶のこと元気の出た理由だった。 党派的野合とは別にこういう存在があり得るのだ。

*4:他の国にもないように見えるが

*5:「集団心理学と自我の分析」(『フロイト著作集 6 自我論・不安本能論』p.195-